案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年2月25日月曜日

頸城鉄道 夏の飯室駅

2010年11月にアップした「晩秋の頸城鉄道 飯室」 は部分廃線後の終点飯室駅でしたが、今回は全線が繋がっていた時代の飯室駅です。

飯室駅に到着したホジ3+ニフ1 1968.08.18

写真の飯室駅はまだ部分廃線前であり、浦川原側へと線路が一直線に延びていた。と云ってもこの1ヵ月半後には部分廃線で線路はこの先で行止まりとなってしまう。
飯室駅前の道路は舗装され浦川原、飯室から直江津へバスで行けるので、豪雪シーズンを除けば浦川原、飯室から新黒井までわざわざ軽便で輸送する必要性は少なくなっていたのでしょう。
部分廃線後の寂れた飯室駅のムードはまだ感じられなかった。

 

ホジ3に牽かれていたニフ1は6年前に較べ塗装が剥げ格段にくたびれていた.新黒井 1968.08.18
よくお供をしていたニフ1の内部には一体何があったのか興味深々.
ちょっとした小荷物程度を運んでいたのでは?

2013年2月16日土曜日

流山電気鉄道の車両

昭和38年頃の流山電気鉄道の風景を2011年2月に紹介しましたが、今回は車両編をアップします。
この頃の車両は元南武鉄道のモハ100形(101,102,103,105)が主力の時代であった。

流山駅のモハ101   1963.03.31

お椀型ベンチレータのモハ103   馬橋 1962年3月
美しいボールドウィン台車

モハ105  流山 1962年3月

モハ102  馬橋  1963.03.31


モハ102  流山 1962年3月

西武クハ1215(元武蔵野鉄道サハ)を1963年に譲受したクハ52。 流山 1963.03.31

モハ100形と組んだクハ51(元豊川鉄道クハ60形) 流山 1962年3月

車庫の奥にあった元ガソリンカーのサハ31 1963.03.31

元ガソリンカーのサハ32 1963.03.31

貨車を従えた混合列車.この頃は流山から「万上みりん」工場への引込線があった.1963.03.31

2013年2月13日水曜日

松本電鉄浅間線、早朝の温泉行き電車

夜行列車で夜明けの都市に到着すると、うす暗い駅前通りに路面電車が停まっている。
こんな早朝の駅前光景を1960年代には各地で見掛けた。

朝5時前に到着した松本駅は夜行でやってきた登山客で賑わい、登山客が向かう上高地方面とは反対の東側に開けた松本市街を浅間温泉行の電車が走っていた。
温泉行電車の撮影は、こんな登山客を除けば早朝でひと気のない松本駅前からスタートした。

陽が出てからの浅間線の紹介は「松本電気鉄道 浅間線」 にあります。

始発前の浅間線松本駅  1963.7.20
まだ薄暗い国鉄松本駅の片隅に、うす汚れた2両の木造電車が休んでいた.
ひと気のない駅と電車はまるで廃線後のようであった.

早朝のひと気のない松本駅前で登山客を満載したバスだけは賑わっていた.
やがて朝の1番電車が発車しガタゴトと松本駅前に出てきた.

早朝で車や人は少なく、静まりかえった松本の大通りを行く電車.

電車の脇を松本駅へ向かうボンネットバスが連なっている.

学校前の急カーブを曲がり未舗装の併用軌道を行く.

併用軌道から専用軌道区間へ入ると、家並みの間をくねくね曲がって走る.学校前-清水

2013年2月11日月曜日

北勢線 西桑名駅風景

三重電気鉄道(旧三重交通) 北勢線は近鉄に合併し、その後、三岐鉄道の北勢線となって近代化軽便として今も走っている事は良く知られている。訪問した1965(昭40)年は近鉄と合併した年で、近鉄化直後で北勢線西桑名駅は車両やカラーリングに三重交通時代の面影を残していた。
近鉄化直後の北勢線は車体色が三重交通色(緑と肌色のツートンカラー)から近鉄色(ブドウ色一色)へ変更されている過渡期であった。
現在の北勢線の風景はKumaさんの「北勢地方のナロー達」に紹介されています。


美しいツートンカラーに塗られた3車体連接車 モ200形202 西桑名 1965.08.05
この後マルーン一色となり電装解除となる.

真夏の西桑名駅 モ224

同じ電車でも2種類のカラーリングが登場した. モ227

阿下喜駅に隣接した鉄道博物館に近鉄色で保存されているモ226.

西桑名駅ホームの脇にある車庫に休む車両達. 
この頃はまだ三重交通時代のツートンカラーが多かった.


モ226

サ135

3車体連接車 モ200形に準じた仕様のサ140形146

サ150形156

ワフの車体も「近畿日本鉄道」に書き換えられている.

2013年2月8日金曜日

小型電車がいる車庫風景

先月、居酒屋鉄談議でChitetsuさんに初めてお会いし例の小型電車の模型を拝見させてもらいました。
単なる自由型ではなく実物観察に基づいた心象鉄道での自由型と、その仕上がりの素晴らしさにただ々驚くばかり。この直後、この小型電車がいる車庫風景がChitetsuさんブログにアップされました。

1月26日のブログ 電車庫モジュールの製作(34)を見て素晴らしい車庫風景にまた唸る。この連載34回の記事には各地の車庫現場が無数に紹介され、いかに実物観察に基づいた車庫風景であるかがよく分かります。

電車庫のアクセサリーとして製作された驚きの小型電車.2013年1月


楽しさ一杯の電車庫風景、私も何点か実物風景を並べてみました.
朝日を浴びた電車庫と小型電車. 日の丸自動車・法勝寺電鉄 米子 1962.07.31
ジヤッキアッアして馬に載せられた車体から片方の小さな台車が外されている。

都電の電車庫. 目黒車庫 1967.12.03
小型車1000、1100形が配置された車庫

島の電車庫. 淡路交通宇山車庫   1965.08.02
 モハ1005が仮台車に載せられて、外された台車DT10がバラバラに分解されている.

所狭しと並べられたモハ1005の台車DT10のパーツ.

電車庫風景. 南海貴志川線 伊太祈曽車庫.1965.08.04
庫内では点検作業中で奥に改装中らしい2両がいる。

車庫裏の風景. 遠州鉄道二俣線 西ヶ崎車庫  1964.3.25
車庫裏には小さな塗装小屋? とその奥に使われなくなった小型電車や台車がぞろぞろと.

2013年2月6日水曜日

消え行く東横百貨店東館

昔、玉電渋谷駅が「東横百貨店」2階にあり、その東横百貨店(現東急)が今年3月閉店になるということで
東横百貨店について調べてみました。

東横百貨店増築の歴史は
1934(昭9)年 東館創業
1954(昭29)年 西館増築
1970(昭45)年 南館増築
ということで玉電風景が消えようとしていた頃は南館が増築工事中だったということになる。
玉電と云えば「東横百貨店」だが1967(昭42)年に現在の「東急百貨店東横店」に改称されている。

JR渋谷駅を複雑に取り囲む東横店各館の配置を分かり易く書くと下図のようで、JR渋谷駅東側にあるのが創業からの東館(緑色)で3月末に閉店し取り壊するのはこの東館であった。その後東横店はJR渋谷駅西側にある西館(黄色)と南館(青色)の2館に集約するそうである。

JR渋谷駅東側は東横線渋谷駅が地下化で取り壊され、東横店東館、東横線地上駅、その下1階の東横のれん街 と渋谷駅の象徴的な風景が消えることになる。

昔あった玉電渋谷駅と東横店西館の位置関係は下図の通り。

3月末閉店し取り壊しとなる東急東横店東館 2013年1月

東急東横店西館と南館

消えゆくJR渋谷駅西側の風景
東急など鉄道3社が渋谷駅を再開発し高さ約230mのビルなど建設し2027年度まで順次開業.

駅地下化で取り壊される東横線地上駅とその下の東横のれん街

華やかな私鉄ターミナル駅

2013年2月4日月曜日

玉電風景 道玄坂

いよいよ玉電風景も道玄坂の専用線軌道に入ると渋谷へと下ります。
中里あたりからスタートした現役時代の懐かしい玉電風景を現在の跡地風景といろいろ対比させてみると、皆さんから様々な想いのコメントを頂戴しました。跡地風景の良し悪しは別として更に道玄坂を渋谷へ下り始めるあたりまで今昔比較を進めてみました。

道玄坂商店街の間を玉電は右へ曲がる.上通り-渋谷 1969.04.22
道玄坂交番前交叉点の手前. 2013年1月

左に渋谷へ下る道玄坂の道路、正面をカーブすると渋谷へ下る道玄坂の専用軌道へ.
道玄坂交番前交叉点


映画「津軽絶唱」の看板の横を専用軌道に入る.
渋谷マークシティへの取り付け道路あたりが玉電軌道だったのでしょう.
玉電軌道跡と地下鉄銀座線の上にマークシティのビルと渋谷エクセルホテル東京が建っている.

1960年代らしい道玄坂商店街の風景の中に電車が顔を出す.
道玄坂交番前交叉点.玉電の軌道はこの先をカーブしていた.

渋谷駅へ下る専用軌道. 1969.04.22
この写真の2年前に商号変更で東横百貨店は東急百貨店東横店となり、玉電の渋谷駅の終端は東横店西館の中に入っていた。写真に見える東横店南館はまだ建設中で翌1970年に完成している。そんな東急東横店が電車の背後に見える.