今年2月はじめに小松のある高校同窓会に招かれて尾小屋鉄道の思い出を聞かせてもらいました。私より年上の方の体験であり私が知らない昭和30年前後の尾小屋鉄道です。小学校から高校時代まで尾小屋鉄道とどんな関わりがあったのか思い出を書いてもらいました。
以下は昭和30年頃の尾小屋鉄道を利用された方が書かれた思い出です。
〇小学生時代
私は東京で生まれ、疎開先の福島から、国民学校2年の時に、尾小屋に来ました(昭和23年、1948年)。尾小屋鉱山が活況の時でした。病院や映画館や風呂場があり、床屋、八百屋、魚屋、薬屋などの多くの商店がありました。人口は5,000人とのこと。父は洋服の仕立て業をしていました。家族は父、母、兄弟5人でした。小学校の5年間は学校は尾小屋にあったため尾小屋鉄道には乗りませんでした。そして尾小屋鉱山が閉山(昭和46年、1971年)する少し前の昭和40年(1965年)に我が家は金沢へ引越しました。
〇中学時代に尾小屋鉄道に乗車
中学校は観音下駅を下車し、丘の上にありました。1学級約100名・全学校生300名程の学校でした。観音下駅の後ろの山は採石場となっており、山は直角に削り取られ壮大な景色でした。また駅近くにパン屋さんがあり、よくコッペパンを買って食べた記憶があります。生徒は観音下周辺の村々から来ていました。尾小屋から観音下までの距離は約4kmで約20分弱の乗車でした。スピードは速くはなかったですが、よく揺れました。時々尾小屋鉄道と並行して走った記憶があります。車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つでした。昭和28年から30年(1955年)までの通学でした。
〇高校時代に尾小屋鉄道に乗車
小松の高校に3年間通学しました。昭和31年から33年(1958年)まで。尾小屋から小松までは16.8kmあり、乗車時間は約1時間弱でした。当時はバスなどは走っておらず、尾小屋鉄道が唯一の交通手段でした。尾小屋鉄道のおかげで小松に通うことができ、感謝しています。尚、冬には雪が降り・積もり、時刻通りいかず大幅に遅れたり、時には運休することもありました。そのため冬には小松に下宿する生徒もいました。私は3年間尾小屋鉄道で通学しました。車内は心地よく、まるで個室にいるような錯覚をしてしまい。座席に座り考え事をしたり、宿題をしたり、本を読んだり、居眠りをしました。小松は現在と違い商店街は活況を呈していました。1年に1回、弟・妹と一緒に小松に出て商店街を見、うどんを食べるのが楽しみでした。当時、三橋美智也の講演会が小松で開催され入場した記憶があります。三橋美智也の歌は懐かしいです。
私(katsu)が 撮ったもっとも昔(昭和37年)の観音下駅。晩年の駅とイメージが違います。
尾小屋から観音下まで通学した中学時代。~昭和30年
尾小屋から小松まで通学した高校時代。~昭和33年
通学した当時の観音下駅はこんな感じだったのでしょう。
昭和39年の年末、長原から見た朝日を浴びた尾小屋の街並み。
中学時代の車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つであった。
高校時代に尾小屋から小松まで約1時間の通学で車内は大変心地よかった。
まるで個室のような錯覚をした車内。
等々・・一体どんな列車だったのでしょうか。
1950年代後半(昭和30~35年)は尾小屋鉄道の最も華やかな時代と言われている。
二両目の客車ホハフ7を除き昭和30年頃の列車はDC121(昭和28~)が牽くこんな列車だったのでしょう。写真は昭和37年に撮った尾小屋駅のDC121+ハフ3+ホハフ7+ホハフ3。