案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年2月22日土曜日

山陽電軌 金比羅駅

以前ブログにアップした山陽電軌幡生線、そこにあった金比羅駅の1枚の写真に下記のコメントを戴きました。コメントにあった1962年の金比羅駅近くの高台から見た幡生線が金比羅~大坪間で山陽本線を超える風景に大変興味深いものがあり調べてみました。

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金毘羅駅、なつかしいです。1962年小1だった私はこの駅を降りて左にみえる道路を渡り坂道を登って海が見える高台の画家さんのアトリエに行っていました。大坪から金毘羅駅の途中が立体交差になっていて下を車が行き来している光景が子供にとっては都会のイメージとして強烈に残っています。今見るとずいぶん戦後っぽい景色だったことが分かり、それはそれで感慨深いです。まりさんのコメント
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現在の地図で幡生線幡生駅、金比羅駅、高台の位置関係を示すもので、画家のアトリエがあった小高い丘とは金比羅公園の丘陵でしょう。日本海が目の前です。この丘から見下ろした当時の風景はどんなに素晴らしかったことでしょうか。

幡生線の遺構は金比羅~武久間の武久川を渡る橋梁跡とその先に続く道路のカーブくらいで、山陽本線をオーバークロスする遺構は不明です。太い赤ラインが幡生線跡で黄色のエリアが金比羅駅があったところと推定されます。


小ブログで以前アップした金比羅駅の写真は1枚だけでしたが、よほど気に行ったのか金比羅駅は5枚撮ってありました。写真はすべて幡生へ向かって撮ったもので左手が日本海側です。
撮影:1967.2.27

下関方面から金比羅駅に到着する幡生行 
左の道路は今や4車線の立派な道路に。


まもなく終点で金比羅を発車するときは行先を彦島口に変えている。 
左の商店の裏手が時代を感じさせます。

 幡生から戻って来た彦島口行。
右手の民家風も戦後を感じさせる凄い建屋です。

金比羅駅前にあるのはどうやら電器屋さんみたい。

2020年2月19日水曜日

鉄道模型趣味誌の連載記事 第9回

2月20日発売の鉄道模型趣味(TMS)3月号は鹿島参宮鉄道時代の竜ヶ崎線佐貫駅を取り上げました。来月14日は佐貫駅の駅名が改称されます。

使った写真は5点。

使わなかった写真いろいろ。

昭和38年の佐貫駅 1963.8.17

現在の佐貫駅 2018.11.24

現在の竜ヶ崎駅 2019.3.23

2020年2月17日月曜日

「花の精」と是政線

北海道のUsuiさんから知らせて戴いた上林暁の「花の精」の一節は、以下のような是政線と月見草のことであった。小説の情景描写から非電化時代の是政線のある日が活き活きと浮かび上がってくる。

 その日の午後、私達は省線武蔵境駅からガソリン・カアに乗った。是政行は二時間おきしか出ないので、仕方なく北多磨行に乗った。そこから多摩川まで歩くのである。私は古洋服に、去年の麦藁帽子をかぶり、ステッキをついていた。O君は色眼鏡をかけ、水に入る用意にズックの靴をはき、レイン・コオトを纏って、普段のO君とまるで違い、天っ晴れ釣師の風態であった。ガソリン・カアは動揺激しく、草に埋もれたレイルを手繰り寄せるように走って行った。風が起こって、両側の土手の青草が、サアサアと音をたてながら靡くのが聞こえた。私達は運転手の横、最前部の腰掛に坐っていた。
 「富士山が近くに見えるよ。」とO君が指さすのを見ると、成る程雪がよく見える。
多磨墓地前で停車。あたりは、石塔を刻む槌の音ばかりである。次が北多磨。そこで降りて、私達は線路伝いに、多摩川へ向かって行った。麦が熟れ、苗代の苗が延びていた。線路は時々溝や小川の上を跨っていて、私達は枕木伝いに渡らねばならなかった。

  <多摩川の土手から河原に下りると月見草が・・このところ略>

「七時五十五分、最終のガソリン・カアで、私達は是政の寒駅を立った。乗客は、若い娘が一人、やはり釣がえりの若者が二人、それにO君と私とだった。自転車も何も一緒に積み込まれた。月見草の束は網棚の上に載せ、私達はまた、運転手の横の腰掛に掛けた。線路の中で咲いた月見草を摘んでいた女車掌が車内に乗りこむと、さっき新聞を読んでいた駅員が駅長の赤い帽子を冠り、ホームに出て来て、手を挙げ、ベルを鳴らした。
  ガソリン・カアはまた激しく揺れた。私は最前頭部にあって、吹き入る夜風を浴びながら、ヘッドライトの照らし出す線路の前方を見詰めていた。是政の駅からして、月見草の駅かと思うほど、構内まで月見草が入り込んでいたが、驚いたことには、今ガソリン・カアが走って行く前方は、すべて一面、月見草の原なのである。右からも左からも、前方からも、三方から月見草の花が顔を出したかと思うと、日に入る虫のように、ヘッドライトの光に吸われて、後へ消えて行くのである。それがあとからあとからひっきりなしにつづくのだ。私は息を呑んだ。それはまるで花の天国のようであった。毎夜毎夜、この花のなかを運転しながら、運転手は何を考えるのだろうか?  うっかり気を取られていると、花のなかへ脱線し兼ねないだろう

 花の幻が消えてしまうと、ガソリン・カアは闇の野原を走って、武蔵境の駅に着いた。是政から帰ると、明るく、花やかで、眩しいほどだった。網棚の上から月見草の束を取り下ろそうとすると、是政を出るときには、まだ蕾を閉じていた花々が、早やぽっかりと開いていた。取り下ろす拍子に、ぷんとかぐわしい香りがした。私は開いた花を大事にして、月見草の束を小脇に抱え、陸橋を渡った。


上林暁 1902~1980年
「花の精」1940年発表(作者38才)から1940年以前の是政線ということになる。
是政線に在籍していたカゾリンカーは1928年製キハ10形(木造)と1938年製キハ20形(鋼板)がある。どちらも2軸ガソリンカーだが木造のキハ10形には素晴らしい風情がある。

キハ10形 武蔵境駅1937年
「写真で見る西武鉄道100年」 ネコパブリッシング

北多磨から是政へ向かう。1962.8.27 (ベタ焼プリントからの画像)
多摩川べりの是政というところへ行けば、すぐ川の向こうへ山が迫っているという。「花の精」より。写真の1962(昭和37)年の是政線は小説のずっと後だが、一面の畑と多摩川の向うの山並みが見える。戦前戦後の風景をまだ残していたのだろう。

 北多磨駅 1962.8.27
小説ではここで下車し是政まで歩いている。

是政駅

 是政駅 1962.8.27





北多磨(現白糸台)から是政まで.

2020年2月15日土曜日

西武多摩川線の今昔2

昨年11月に訪問した身近な西武多摩川(旧是政)線を先日再び訪れてみました。
現在の競艇場前駅と昔の砂利採取場の写真を比較してみると、
57年前の多摩川(旧府中)競艇場の位置はどうやら今も変わっていないようだ。
西武多摩川(旧是政)線と多摩川競艇場のつながりは今も続いていた。

こんな何の変哲もない多摩川(旧是政)線ですが、今朝、FBで昔教科書に出ていたそうで上林暁の「花の精」を紹介してくれた方がいました。
文中にガソリンカーが走っていた頃の是政線を描写したところがあり、この「花の精」は今年の大学センター試験の国語に出題されたそうです。この時代の是政線の描写に惹きつけられます。


ブルーの近江カラーが到着する競艇場前。2020.2.10
この日は競艇場が休みで昼下がりの駅はひっそりとしていた。  

橋上駅から見える多摩川競艇場に初めて気が付いた。
時々ボートの調整かバリバリとエンジン音が聞こえてきた。
砂利積込場にあった側線が今は住宅地に。右手道路沿いの防音壁の向こうが競艇場。


57年前の砂利積込場とその向こうに多摩川競艇場。 1962.8.27

砂利積込場とその背後にある多摩川競艇場。

57年前の競艇場前風景。武蔵境へ向けて発車したモハ151+クハ1152。

競艇場前の先を左カーブするところにやって来た是政行(もう一本のモハ151形編成)

上の写真の現状。 2019.11.8


競艇場前から延びていた引込み線。

2020年2月8日土曜日

50年前の白髭の写真

ブログをやっていると時々昔の写真に写った方からメールを戴くことがあります。
昨日は私の写真集で江若鉄道白髭駅の写真に写った方からメールを戴きました。

50年前の昭和44年10月19日、あの日は湖中鳥居が見える江若鉄道白髭駅で待機していると突然現れたのが写真の貨物列車でした。その写真に写ったのがカメラを持った人。京都の鉄道ファンで大学生時代だったそうです。
この方からこの時の写真を送って戴きました。白髭神社がある駅の建物と湖中鳥居によく似合う家族のひとコマが実にいいですね。

 京都の鉄道ファンが撮った素晴らしい写真。和服の人が次の列車で京都へ帰る家族と見送りの挨拶をしているところか。兄弟らしい弟の方は挨拶より列車が気になり何かやってきたぞと覗いている。1969.10.19

上の写真を撮った人が私の方に振り向いた一瞬。私の写真集で使った写真です。
二人の写真の時間差は数秒でしょう。1969.10.19

50年前の一瞬の共有が分かるのは鉄道ファン同士ならではで、ほんとうに幸せな趣味だとつくづく思います。

昨年の写真展で感動した白髭の湖中鳥居の写真。

2020年2月6日木曜日

栃尾線 最後の下長岡車庫

コメント欄で栃尾線廃線後の廃車について触れていてED51のことを思い出しました。
ブログで廃線直前のED51を取り上げたのがこちらで、もう9年前のことでした。

         ↓
越後交通 栃尾線 ED51の角度 2011年1月15日

ほんとうに惜しまれます、これらの車両だけでも残してほしかった。

 昭和24年日立水戸工場製 自重15トン  下長岡車庫 1975.3.8

ナローの顔つき



末期は吊り掛け式モハ216と217の2編成が主役だった. 1975.03.08


2020年2月5日水曜日

栃尾線 上見附駅風景

改めて昭和39年3月の上見附駅の写真を見てみると今の時代と更にかけ離れていく。
電車や電機による客車牽引が廃止になり総括制御時代になるまでこんなゲテモノ揃いが続いたのだろう。

撮影:1964.3.22
草軽のホハ18→栃尾のホハ18と草軽の番号のまま使われていた。
電機ED51に牽かれて栃尾からやってきた客車の小さいこと。その狭い車内はほぼ満席、スイッチバック駅上見附で電機の付替えをすると長岡へ向けて発車する。貨車は材木ではなくよく見るとドラム缶のようだ。駅舎、周辺の民家どれもが時代を感じさせる。

 電機が編成を組み直している。

電機を先頭につけると混合列車は長岡に向けて発車して行った。

同じホームで今度は元草軽ホハ18とは正反対のガソリンカー崩れの大きなトレーラがやってきた。 栃尾線は寄せ集め車両で小~大まで車体サイズがバラバラなところが楽しい。

2020年2月3日月曜日

大沼電鉄デ1の1/3スケールモデル

北海道は函館の北方大沼の近く。戦前は大沼公園から海辺の鹿部まで17.18Kmを走っていた大沼電鉄(1067mm軌間)は、一旦廃線したが戦後復活し新銚子口から鹿部まで11.3Kmを昭和27年まで走っていた。

この大沼電鉄デ1を模型で再現した北海道の鹿部電鉄さんとYouTube投稿者さんに許可戴き15インチゲージモデルの動画を紹介させてもらいます。

15インチ(381mm)ゲージモデルでは細身車体で自由形の有名な軽便模型鉄道がありますが、鹿部電鉄さんの15インチゲージは大沼電鉄デ1の何と1/3スケールモデルだそうです。
デ1の車体にすっぽり収まった運転手の顔が余りにも大きく見え思わず笑ってしまった。
これは凄い!!






大沼電鉄デ1
北海道の私鉄車両 澤内一晃・星良助 著  北海道新聞社

函館の北方  大沼電鉄