案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2025年7月24日木曜日

JR日光駅前の今昔

 1964(昭和39)年に廃止された、国鉄日光駅前のループ線。軌道線ならではの急カーブで駅前をぐるりと回るその線路は、楽しさがありとても気になる存在でした。青蛙、田辺両氏による当時の写真と、残されたループ線図とを照らし合わせて、その姿をたどってたのがみたのが2015年6月22日の投稿「日光軌道線 国鉄駅前のループ線」でした。

ちょうど東京オリンピックが開かれたあの年、観光都市・日光の表玄関に古びた路面電車がたむろしている姿は「みっともない」とされ、それが廃止の理由の一つになったとも言われています。しかし、今だったら・・・


今再びこの現場に立って想いを巡らしてみました。


JR日光駅と駅前 2025.7.22

62年前の国鉄日光駅と日光軌道線.1963年7月 撮影:青蛙氏
現在のバスと同様にここで国鉄客を乗せ次の東武日光駅で東武の客を乗せていた.


JR日光駅前と東武日光駅に向かう道. 

上の写真の61年前で駅前に並ぶ商店.この角に今ステーションホテルが建っている.
1964年7月 撮影:田辺氏


JR日光駅から見たステーションホテル.


霧降の滝.2025.7.23

真夏の朝、日光駅前に立つと、まず目に入るのが「日光ステーションホテル」。その朝のバイキングは、まるでここはどこかヨーロッパの観光都市にいるような錯覚に陥る。客のほとんどは外国人観光客。彼らの多くは、やがて駅前から発車する「世界遺産めぐりバス」に乗っていくのだろう。そのバスも、すぐ先の東武日光駅前で満杯になる。インバウンド観光の中心は、やはり日光東照宮や輪王寺など、世界遺産群をめぐる定番コースなのだろう。

もしこのJR駅前、そして東武駅前に、軽やかなライトレールが巡回していたら・・・駅と観光拠点を静かにつなぐ新たな足として。混雑するバス路線の代わりに、静かに街をなぞるように走るライトレール。観光の利便性も大きく変わるはずだ。

一方、JR日光駅前から出る「霧降高原行き」のバスは、乗客が数人ほど。町を抜け、静かな高原へと分け入り霧降の滝で降りると、そこにはインバウンドの喧噪はまるでない。風の音とウグイスの声、霧降はいまもなお、日光の“日本的な静けさ”を感じられる場所だった。

世界遺産が人を呼び、静けさが人を癒やす。そんな対照的な二つの顔を、夏の二日間で見せてくれた日光だった。


2025年7月16日水曜日

北勢線 西桑名駅 あれから60年


カラー撮影:2025.7.16

近鉄、JRと並ぶナロー北勢線の線路.桑名
三交カラーで今も活躍している旧200系3連+モハ.

200系の美しい原形 モ202+サ+モ201.1965.8.5
1971年に電装解除された


西桑名駅. 1965.8.5


西桑名駅構内.1965.8.5


現在の西桑名駅の朝.2025.7.16


ナローとしては立派なレール.西桑名駅


立派な40kgレール。枕木の長さが違うのはナロー用と3'6''用が混ざっているのでしょう.



西桑名駅.


終点 阿下喜の風景.


9時過ぎた日中の阿下喜発は1時間に1本しかない.


2025年7月10日木曜日

小坂鉄道 軽便の面影は消えていた大館駅

 

花岡行と小坂行の発車案内が表示された大館駅. 1966.03.0





栃尾線に転じたホハ30 (元小坂鉄道のハ10)。 同時に栃尾へやって来た他の5両とは外観が異なる。 栃尾鉄道 悠久山 1964.3.22

昭和41年早春、奥羽本線の大館駅に降り立った。雪の残るホームには、ありふれたキハと機関車が発着を繰り返していた。かつて鉱山を結んで走った小坂鉄道も、今やナローゲージの面影を失い、1067mmへと改軌されていた。改軌は昭和37年10月のこと。乗車券には「同和鉱業小坂鉄道線」と記されていた。

大館からは小坂線と支線の花岡線が分岐していたが、構内の風景はどこか味気なかった。軽便鉄道らしい車両や線路の表情は、もうそこにはなかった。

書物によると小坂のナロー時代は、軽便とは思えぬほど重厚で威風堂々としていた。その時代の客車をこの数年前に越後交通栃尾線で見たことがある。今、改めてその写真を見ると、冬景色の大館駅が思い出された。

ナローが改軌されても、車両が変わっても、あの大館駅の小坂鉄道には時代を越える風格があった気がする。