案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年7月31日水曜日

仙台市電 七夕まつり (再スキャン)

8月ともなれば東北の夏祭りシーズン、仙台では七夕まつりが6~8日に開催されます。
東京オリンピックが開催された1964年夏の仙台七夕まつりを何回かブログにアップしてきました。
2年前にスキャンした時は真夏の写真のハイライト白飛びがどうにも解決できなかったのですが、
最近はスキャナ(EPSON GT-X970)の環境設定で自動露出レベルを控えめにして自然な
感じが出せるようになりました。
再度スキャンして夏の仙台七夕まつりをもう一度アップしてみます。

東京オリンピック開催の年、活気溢れる仙台の風景. 丸光百貨店前.1964.08.08
高度成長期がスタートし元気一杯だった頃の日本の風景。この頃はまだマイカーなんて夢のまた夢。それがあっとい間に誰もが持てるようになり、豊かな暮らしへと社会の変化のスピードは大変なものであった。

元寺小路 左手が仙台駅前  

元寺小路

仙台「七夕まつり」の中心部「中央通名掛丁」入口.仙台市電 元寺小路

東一番丁(仙台郵便局前)

東一番丁(仙台郵便局前)

 東一番丁(仙台郵便局前)

南町通り

2013年7月29日月曜日

尾小屋鉄道の保存車両

次は小松市符津町にある、いしかわ子ども交流センター小松館に併設された「なかよし鉄道」と名づけられた総延長473mの保存鉄道(水曜日・土曜日・日曜日・祝日運転)。
ここには尾小屋鉄道の車輌4輌(キハ1・DC121・ホハフ3・ホハフ8)が動態保存されている。
場所は粟津の駅に近いのですね。

キハ1. スマホはこんなに綺麗に撮れるのですか! 撮影Tさん 2013.05.05

ここを訪問して撮影したTさんからのメールによると
通常は水・土休日に展示館職員の手でキハ3が運転されていますが,この日はこどもの日のイベントで,年2回のみ運転の他の3両も走りました.
職員の方の話だと,DC121はクラッチ操作が難しく,熟練のボランティア(保存会)の方でないと運転できないそうです.普段の運行は職員の方でも運転できるように,キハ1はエンジン換装・トルクコンバータ装備(AT化?)しているようです.

DC121+ホハフ3+ホハフ8の編成.     撮影Tさん 2013.05.05
50年昔に見たあの名編成の車両が今こうして動態保存されているとは感激です。



ホハフ8  新小松 1962.08.01
この時は三重交通から移籍した直後で荒れ果てた木造車であった.

キハ1    新小松 1962.08.01
キハ2.   2両のキハは旧塗装の濃淡緑ツートンで赤帯が入っていた.


2013年7月27日土曜日

尾小屋鉄道の保存車両

1977(昭52)年3月に廃線となった尾小屋鉄道の車両は小松市各所に大切に保存されていて嬉しいものです。
今年4月から社会人となられた小山在住のTさんが、今年もこの地を訪れて撮った「小松市立ポッポ汽車展示館」の写真を使わせてもらいました。ここに保存されている尾小屋鉄道の保存車両3両と現役時代の写真を並べてみました。

遠鉄奥山線カラーに復元された元尾小屋鉄道キハ3. 2013.05.04 撮影Tさん

石川県小松市の「小松市立ポッポ汽車展示館」で動態保存されている元尾小屋鉄道の気動車キハ3がマルーン系の色で塗り直され、2012年9月30日から一般に披露目され、この遠鉄塗装は2年間の期間限定で公開されたそうである。よくぞここまで復元されたものです。

現役時代の尾小屋鉄道キハ3.  1968.01.15

遠鉄奥山線で活躍していた頃のキハ1803. 曳馬野  1964.03.23
ラジエータと自連カプラーがいかめしい.

元尾小屋鉄道5号機. 2013.05.04  撮影Tさん

現役時代の尾小屋鉄道5号機.新小松車庫 1964.12.30

元尾小屋鉄道ハフ1.  2013.05.04  撮影Tさん

現役時代の尾小屋鉄道ハフ1. 西大野  1962.08.01
この2軸客車はよく尾小屋へ向かう列車の最後尾に連結されて、
オープンデッキから眺める沿線風景は最高であった。

2013年7月22日月曜日

草軽電鉄 保存されたジェフリーNo.13

現在、軽井沢駅前に保存されている草軽のジェフリー製デキ12形No.13は、草軽電鉄の新軽井沢側廃線から6年が経った1966年に国鉄中軽井沢駅に近い中山道沿いに置いてありました。
今の軽井沢中学のグラウンドの外れ一段下がった辺りで、背後に見える建物が今の軽井沢社会体育館なのかもしれません。機関車に屋根等の付帯設備は一切なく注意書き立看板のみで、木立ちに囲まれひっそりと置いてありました。この後、軽井沢町中央公民館の駐車場に移動され、新幹線開業後に更に現在の位置に移動されたそうです。

デキ12形No.13 中軽井沢 1966.08.19

何故か13の表示が無かったが、詳細に採寸したメモの中にNo.13であることが記録されていた.
フレーム前後の埋込みボルト10本の頭の向きが全て軽井沢駅前の保存No.13と一致している.
塗装は白っぽくなったマルーンでホコリ?で黒に近かった.

全景

木立ちに囲まれてひっそりと休むNo.13.

現役時代のNo.13

2013年7月21日日曜日

草軽電鉄 ジェフリーNo.18

私の兄の姿が写っていた草軽の写真1枚がやっと出てきました。
社会人となった昭和30年代始めと思われます。
8mmムービーカメラを手に入れて草軽を追った映像を一度だけ見せて貰ったことがあるのですが、
今はもうこの時の話しを聴くこともできなくなってしまいました。
草軽のことを聴いて一言漏らさずメモしておくべきでした。
ところでこの時のジェフリーNo.18は先日の上州三原の写真に姿が見え、
映画「カルメン故郷に帰る」でも列車が北軽井沢へ到着する場面に登場していました。

草軽ジェフリーNo.18と記念写真

 映画「カルメン故郷に帰る」の場面.今年6月21日のテレビ放映より

上州三原の車庫に休むNo.18

2013年7月18日木曜日

草軽電鉄の現役時代2

 写真は全て法大鉄研OB会のM先輩が撮影

上州三原駅  1961年

上州三原駅構内に新設された車庫兼工場.

上州三原の車庫兼工場
転がっているプレーン車輪はボギー貨車(径610mm)のものでしょう.
草軽のボギー貨車は軽便としては最大クラスの巨大アーチバーを履いていた.

無蓋車とホハ30を牽く草軽の代表的な編成. 嬬恋?

この線路配置から国境平駅か?
全ての駅の構内図と照合すると国境平駅から二度上方面を見た線路配置と一致する.


鶴溜

新軽井沢行き. 鶴溜  1960.3.30

2013年7月16日火曜日

草軽電鉄の現役時代1

先日の大学鉄研OB会のM先輩との草軽模型談議で拝借してきたのが草軽電鉄現役時代の写真です。
私にとって手が出なかった草軽電鉄は保存車両デキや車両竣功図、書籍を眺めるのが精一杯でした。M先輩は全線営業していた1958年と、吾妻川橋梁流出により上州三原で分断後の1960年と1961年に訪問し撮影したようです。

    写真は全て法大鉄研OB会のM先輩が撮影

上州三原駅. 1961年
この先の吾妻川手前で線路は行止まりとなっている.
1959(昭和34)年の台風により吾妻川橋梁流出のためこの駅で分断された.新軽井沢~嬬恋間が先に廃線となった後、残された上州三原~草津温泉間は写真の翌年春(1962年2月)に廃線となった.


主力の客車ホハ30形  上州三原
廃線後、駿遠線へ払い下げられて改装されたのをよく見掛けた.

ホハ30形の車風景 1958年
草軽に多かった片側クロスシート.顔を近づけて会話ができるのが良いが、狭い車内をロングシートの客の膝を避けながら歩くのは大変であったろう.車体の内幅は1950mm.

草津温泉の2駅手前の草津前口駅で硫黄の積込みをしている. 1958年
ここから新軽井沢まで運び国鉄貨車に積み替えていた.

デキの特殊パンタは調整が多かったのだろうか.上州三原 1961年

2013年7月14日日曜日

草軽電鉄の模型

先日、大学鉄研OB会のM先輩が製作された草軽電鉄の模型を45年ぶりに拝見。アメリカン3フィーターの10.5mmゲージの部品を使った尺度1/70で、昭和38年頃の製作だそうです。

9mmゲージがまだ無かった頃の軽便模型はナローの部品などはなく16番16.5mmゲージの部品を加工して使ったりで、アメリカンナロー10.5mmゲージの小さな台車や車輪を使うのはとても贅沢に感じたものであった。草軽の1/70ナローを手に取るとやはり1/87ナローとはボリューム感がかなり違う。

草軽デキ12形+ホハ30形とボギー無蓋貨車

1/70草軽列車と1/87頸城ホハ2

1/70草軽ホハ30形と1/87頸城ホハ2

1951年 映画「カルメン故郷に帰る」に登場した草軽ホハ30形. テレビ放映画面

2013年7月11日木曜日

昭和40年の江ノ電風景

前回アップした1963(昭和38)年4月から2年後の1965(昭和40)年3月、鎌倉高校前から稲村ヶ崎へ向かって海岸沿いを走る江ノ電を撮り歩いてみました。

ちょうどマイカー普及の時代が始まった頃で海岸沿いをスポーツカーが快適に飛ばしているのを見掛けると、歩いて電車を追いかけているのがミジメになったものである。海岸沿いを走るこの辺りは江ノ電風景も最高潮であったが、海が見える沿線はどんどん開発されて派手なものが目につき次第に俗っぽくなってきたような気がした。沿線開発が急速に進んでいた時代であったのだろう。

鎌倉高校前-七里ヶ浜 1965.03.23
海沿いの道路にはブルーバード、大衆車パブリカなどが走っていた.マイカー普及の時代が始まった頃で、海沿いをドライブしているのは大衆車だけでなくスポーツカーもよく見掛けた.これからはマイカーを使ったレジャーが主となり若者達はマイカーに取りつかれる時代が始まる.

海沿いの道路を歩いている人は少なかった.鎌倉高校前-七里ヶ浜.

海岸通りから離れ住宅街を行く.鎌倉高校前-七里ヶ浜

鎌倉高校前から七里ヶ浜へ到着する.

七里ヶ浜を出た急カーブを曲がってまた海沿いに出る. 七里ヶ浜-稲村ヶ崎
2年前には崖を切り崩して開発中だった荒涼とした風景も整備されてきた.

七里ヶ浜ホテルの脇を行く.七里ヶ浜-稲村ヶ崎