「真夏の淡路 宇山駅」
洲本駅を発車した電車は民家の裏手をかすめるように走り、洲本川を渡り左へカーブするとほどなく宇山駅に到着した。
以前、モノクロで取上げた宇山駅をカラーにしてみると、真夏の空に浮かぶ白い雲、乾いた駅前広場の暑さ、ゆっくり流れていた島の時間などが蘇って来る。夏の陽ざしも今ほど強くなかったあの夏の日はもうやって来ない。
「真夏の淡路 宇山駅」
洲本駅を発車した電車は民家の裏手をかすめるように走り、洲本川を渡り左へカーブするとほどなく宇山駅に到着した。
「京大吉田寮と市電」京都市電 1969年正月
記憶から消え行くあの時代の空気感。
電停近衛通の向こうに見える吉田寮。写真は学生寮の問題に端を発し京大全学的紛争へと発展する直前だった。この時に吉田寮生で2回生だった方からのコメントでそれが分かった。
これから大変な時代を迎える昭和44(1969)年正月の静かな風景であった。
雪の川を渡る電車は、
年の瀬の光の中を走っていた。
山は遠く霞み、
木橋の匂いまで
冷たい風に混ざっていた。
「夕暮れ時の尾道」
山陽本線尾道駅のホームが帰宅客で賑わいはじめた夕方、駅の地下道を進むと、背後に山が迫る狭い一角に「尾道鉄道のりば」があり、小さな2面のホームに電車や客車が休んでいた。
尾道鉄道 1962年夏
(モノクロ画像のAIカラー化画像)
「夏の松本駅前」松本電鉄 浅間線 1963年7月
夜行列車で松本に着いたのは、まだ夜明け前のことだった。静まり返った駅前に立ち、これから始まる一日を思いながら歩き出す。
沿線をあちこち撮り歩き、再び駅前に戻ってきた頃には、夏の陽はすっかり高く昇り、街はもう昼の顔になっていた。古びた木造電車は、駅前の端にある小さな乗り場で客を乗せると、ゆっくりと動き出し、急カーブを曲がってメイン通りを浅間温泉へ向かって陽ざしの中を走り去って行った。
(生成AIカラー化画像)
「学校前の急カーブ」
砂利道の併用軌道を、埃を巻き上げながら木造電車がやって来る。
十分に速度を落とし、急カーブに差しかかると、
ギィギィと音を立てながら直角に曲がって、松本駅前へ向かっていった。
1962(昭和37)の北陸鉄道能登線も昭和30年代らしいカラーリングで、北陸鉄道の標準色(クリーム/朱色)になる以前は、こんな昭和30年代らしい色であった記憶がある。決して朱色の能登線ではなかった。
記憶の裏付けとなるカラー情報はネットや書物に見つからず、やっと見つけた訪問ノートのメモが裏付けとなった。窓下が北陸鉄道の朱色ではなく微妙なブルーであるのは間違いなかった。
窓下のブルーをもっと明るい水色に指定して再度AIカラー化をやってみた。
AIは昭和37年の能登線のカラーを知らない(ネットにカラー情報がない)ので何種類もブルーを試してみて、その中の1点を自分でトーン調整したのがこの1枚になった。ブルーをもう少し濃くしたいがAIは窓上クリームまで濃くしてしまうのでそれは無理であった。記憶に近い色の見本が無くて能登線も厄介な色ブルーであった。
先日、秩父鉄道SL(C58363)列車で熊谷から三峰口まで乗ってきました。
会社OB達との旅は、毎度飲み食い主体の飲み鉄であり、改めてSLと西武特急ラビューを撮りに行きたくなる絶好の季節であった。それにしても新緑の野山が美しかったこと。
モノクロ写真の生成AIによるカラー化。
AI任せでは色が出ない昭和30年代の難解色の代表が尾小屋DC121、浅間線、沼尻。
沼尻のカラー写真の事例がネットに多々あるが、その多くは模型のカラー写真。
書物の印刷でイメージに近いのが機芸出版社「軽便探訪」の表紙くらいであった。
青でもない緑でもない、何とも言葉で表現できないのが沼尻の色であった。
写真は1年前の3月30日に関水本線(関水埼玉工場)で撮影した元井笠ホハ10。
西武山口線仕様34号として見事に復元された。
井笠ホハ10の経歴
①井笠鉄道での現役時代
②井笠鉄道廃線後、西武山口線で使用され、
その後、西武遊園地でレストラン列車として使用される
③関水本線で山口線仕様34号(元井笠ホハ10)に復元
山口線仕様34号の復元で井笠ホハ10と三度目の出会いであった。