案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年4月17日金曜日

鉄道模型趣味誌の連載記事 第11回

今回のTMS 5月号は「月山と三山(さんざん)電車」です。

5月の山形交通三山線と言えば春スキーの月山と桃園の花。出羽三山の一つ「月山」がキーポイントになります。そこで使ったのがこの1枚の月山の写真です。

たった1枚の小さな写真で月山の確定になんと手間どったことか。
山のカタチと白銀が月山と思えるが、三山線の北側から羽前高松行を撮って、ほんとうに月山が電車の背後に写るのか? Googleアースやストリートビューで様々検討した結果でも確定せず、結局、地元市役所に問い合わせてやっと月山が確定できた次第。


夏まで雪が残る月山の麓を行くモハ111+モハ106。1971.5.5
←羽前高松 間沢→


TMS 5月号

以下は未掲載の画像
初春の羽前高松 1966.3.6

 初春の羽前高松  1966.3.6

2020年3月21日土曜日

鉄道模型趣味誌の連載記事 第10回

今月発売の鉄道模型趣味(TMS)4月号は土佐電気鉄道の御免町ジャンクションです。
早いもので今月号で連載10回になります。
たった2ページの写真記事ですが毎回詰めの段階でえらい時間が掛かります。
先日もキーポイントになる背後に写る山の名称で、たった名称一言の調査にどれだけ時間を掛けてしまったか。こんな拘りも自己満足に過ぎないのかもしれません。



1969年、御免町駅で軌道線⇒鉄道線への乗入れ風景です。

2020年3月10日火曜日

尾小屋鉄道乗車の思い出

今年2月はじめに小松のある高校同窓会に招かれて尾小屋鉄道の思い出を聞かせてもらいました。私より年上の方の体験であり私が知らない昭和30年前後の尾小屋鉄道です。小学校から高校時代まで尾小屋鉄道とどんな関わりがあったのか思い出を書いてもらいました。

以下は昭和30年頃の尾小屋鉄道を利用された方が書かれた思い出です。

〇小学生時代
私は東京で生まれ、疎開先の福島から、国民学校2年の時に、尾小屋に来ました(昭和23年、1948年)。尾小屋鉱山が活況の時でした。病院や映画館や風呂場があり、床屋、八百屋、魚屋、薬屋などの多くの商店がありました。人口は5,000人とのこと。父は洋服の仕立て業をしていました。家族は父、母、兄弟5人でした。小学校の5年間は学校は尾小屋にあったため尾小屋鉄道には乗りませんでした。そして尾小屋鉱山が閉山(昭和46年、1971年)する少し前の昭和40年(1965年)に我が家は金沢へ引越しました。

〇中学時代に尾小屋鉄道に乗車
中学校は観音下駅を下車し、丘の上にありました。1学級約100名・全学校生300名程の学校でした。観音下駅の後ろの山は採石場となっており、山は直角に削り取られ壮大な景色でした。また駅近くにパン屋さんがあり、よくコッペパンを買って食べた記憶があります。生徒は観音下周辺の村々から来ていました。尾小屋から観音下までの距離は約4kmで約20分弱の乗車でした。スピードは速くはなかったですが、よく揺れました。時々尾小屋鉄道と並行して走った記憶があります。車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つでした。昭和28年から30年(1955年)までの通学でした。

〇高校時代に尾小屋鉄道に乗車
小松の高校に3年間通学しました。昭和31年から33年(1958年)まで。尾小屋から小松までは16.8kmあり、乗車時間は約1時間弱でした。当時はバスなどは走っておらず、尾小屋鉄道が唯一の交通手段でした。尾小屋鉄道のおかげで小松に通うことができ、感謝しています。尚、冬には雪が降り・積もり、時刻通りいかず大幅に遅れたり、時には運休することもありました。そのため冬には小松に下宿する生徒もいました。私は3年間尾小屋鉄道で通学しました。車内は心地よく、まるで個室にいるような錯覚をしてしまい。座席に座り考え事をしたり、宿題をしたり、本を読んだり、居眠りをしました。小松は現在と違い商店街は活況を呈していました。1年に1回、弟・妹と一緒に小松に出て商店街を見、うどんを食べるのが楽しみでした。当時、三橋美智也の講演会が小松で開催され入場した記憶があります。三橋美智也の歌は懐かしいです。  

私(katsu)が 撮ったもっとも昔(昭和37年)の観音下駅。晩年の駅とイメージが違います。

尾小屋から観音下まで通学した中学時代。~昭和30年
尾小屋から小松まで通学した高校時代。~昭和33年
通学した当時の観音下駅はこんな感じだったのでしょう。

昭和39年の年末、長原から見た朝日を浴びた尾小屋の街並み。

中学時代の車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つであった。
高校時代に尾小屋から小松まで約1時間の通学で車内は大変心地よかった。
まるで個室のような錯覚をした車内。
等々・・一体どんな列車だったのでしょうか。
1950年代後半(昭和30~35年)は尾小屋鉄道の最も華やかな時代と言われている。

二両目の客車ホハフ7を除き昭和30年頃の列車はDC121(昭和28~)が牽くこんな列車だったのでしょう。写真は昭和37年に撮った尾小屋駅のDC121+ハフ3+ホハフ7+ホハフ3。

2020年3月8日日曜日

最後の池袋発 直通三峰口・長瀞行

3月14日に実施する西武鉄道ダイヤ改正で、土休日の朝夕に運転される秩父鉄道直通列車の運転区間が見直しとなり、今日が最後の池袋発 直通三峰口・長瀞行。

白いセミクロスシート車4000系が消える訳ではなく4000系が池袋~飯能間を走ることが無くなるだけのことですが、最後の池袋発 秩父鉄道直通で三峰口まで乗ってみました。

 三峰口で見れる4000系が消える訳ではなく、今日の16:25発が最後となる直通「池袋」行。次の休日から直通は三峰口~飯能間となる。2020.3.8

とうことで最後の急行「池袋」行先表示を分かるように撮ったものです。

ダイヤ改正後も飯能~三峰口間の直通はあるので三峰口のこんな光景はまだまだ見れるでしょう。

所沢で乗る快速急行「長瀞・三峰口」行もこれが最後となった。

新型ラビューへの置換えで3月14日ラストランとなるレッドアローのHM。所沢

人気のレッドアロークラシックも今週3/13日がラストラン。こちらはラストランのHMもなかった。西武秩父

池袋線の特急は全てラビューに置換えとなる。 所沢

2020年3月7日土曜日

加悦の古典車両2

加悦の蒸機などを古典車両の続きで取上げようと思っていたら、
過去に何度も取り上げていましたので今回は加悦の建物や施設としました。
すべて過去にアップしたことがあるもので再掲です。

撮影:1962.7.31 
大江山を望む丹後ちりめんの里加悦町(今の与謝野町)に似合う素晴らしい終着駅 加悦。

 格調ある加悦駅の現役時代 

貨物ホーム上屋。

機関庫の前で休む片ボギー車キハ101 (昭和11年日車製)

機関庫の脇にあった給水塔。 
この日は4号機(大正12年川崎造船製)が煙を吐いていた。

C160、1261、2号機が留置されていたターンテーブル。

一番奥の行止まりにあった給炭所。
ホームの線路の先は昔大江山鉱山駅に至る貨物線が延びていたが戦後閉山し貨物線は廃止されていた。現在は貨物線の道床跡を利用したサイクリングロードがこの風景の先へ向かっている。

加悦の民家が写っているのはこの1枚くらい、加悦の街にカメラを向けず惜しいことをしました。


2020年3月1日日曜日

加悦の古典車両1

今、話題の加悦鉄道の保存車両。
散り散りにどこかへ身売りされていくのでしょうか。

1962年、これらの古典客車はまだまだ現役でした。
今だったらイベントや明治村あたりでしか見れない動く古典客車、
日常これらが当り前に使われていた加悦鉄道は生きた鉄道博物館のようであった。

そして、この5年後もまだこれらが使われていたのを知って驚きました。
当時、加悦駅構内にいた繊細で華奢な造りを感じる古典客車を改めてアップしてみます。

撮影:1962.7.31 加悦
ハブ2+ハ21+ハ20+ハブ3

ハブ2+ハ21+ハ20+ハブ3

注目のハブ3

 ハ21

ハブ2

ハブ2

ハ10

ハブ6

2020年2月22日土曜日

山陽電軌 金比羅駅

以前ブログにアップした山陽電軌幡生線、そこにあった金比羅駅の1枚の写真に下記のコメントを戴きました。コメントにあった1962年の金比羅駅近くの高台から見た幡生線が金比羅~大坪間で山陽本線を超える風景に大変興味深いものがあり調べてみました。

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金毘羅駅、なつかしいです。1962年小1だった私はこの駅を降りて左にみえる道路を渡り坂道を登って海が見える高台の画家さんのアトリエに行っていました。大坪から金毘羅駅の途中が立体交差になっていて下を車が行き来している光景が子供にとっては都会のイメージとして強烈に残っています。今見るとずいぶん戦後っぽい景色だったことが分かり、それはそれで感慨深いです。まりさんのコメント
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現在の地図で幡生線幡生駅、金比羅駅、高台の位置関係を示すもので、画家のアトリエがあった小高い丘とは金比羅公園の丘陵でしょう。日本海が目の前です。この丘から見下ろした当時の風景はどんなに素晴らしかったことでしょうか。

幡生線の遺構は金比羅~武久間の武久川を渡る橋梁跡とその先に続く道路のカーブくらいで、山陽本線をオーバークロスする遺構は不明です。太い赤ラインが幡生線跡で黄色のエリアが金比羅駅があったところと推定されます。


小ブログで以前アップした金比羅駅の写真は1枚だけでしたが、よほど気に行ったのか金比羅駅は5枚撮ってありました。写真はすべて幡生へ向かって撮ったもので左手が日本海側です。
撮影:1967.2.27

下関方面から金比羅駅に到着する幡生行 
左の道路は今や4車線の立派な道路に。


まもなく終点で金比羅を発車するときは行先を彦島口に変えている。 
左の商店の裏手が時代を感じさせます。

 幡生から戻って来た彦島口行。
右手の民家風も戦後を感じさせる凄い建屋です。

金比羅駅前にあるのはどうやら電器屋さんみたい。

2020年2月19日水曜日

鉄道模型趣味誌の連載記事 第9回

2月20日発売の鉄道模型趣味(TMS)3月号は鹿島参宮鉄道時代の竜ヶ崎線佐貫駅を取り上げました。来月14日は佐貫駅の駅名が改称されます。

使った写真は5点。

使わなかった写真いろいろ。

昭和38年の佐貫駅 1963.8.17

現在の佐貫駅 2018.11.24

現在の竜ヶ崎駅 2019.3.23

2020年2月17日月曜日

「花の精」と是政線

北海道のUsuiさんから知らせて戴いた上林暁の「花の精」の一節は、以下のような是政線と月見草のことであった。小説の情景描写から非電化時代の是政線のある日が活き活きと浮かび上がってくる。

 その日の午後、私達は省線武蔵境駅からガソリン・カアに乗った。是政行は二時間おきしか出ないので、仕方なく北多磨行に乗った。そこから多摩川まで歩くのである。私は古洋服に、去年の麦藁帽子をかぶり、ステッキをついていた。O君は色眼鏡をかけ、水に入る用意にズックの靴をはき、レイン・コオトを纏って、普段のO君とまるで違い、天っ晴れ釣師の風態であった。ガソリン・カアは動揺激しく、草に埋もれたレイルを手繰り寄せるように走って行った。風が起こって、両側の土手の青草が、サアサアと音をたてながら靡くのが聞こえた。私達は運転手の横、最前部の腰掛に坐っていた。
 「富士山が近くに見えるよ。」とO君が指さすのを見ると、成る程雪がよく見える。
多磨墓地前で停車。あたりは、石塔を刻む槌の音ばかりである。次が北多磨。そこで降りて、私達は線路伝いに、多摩川へ向かって行った。麦が熟れ、苗代の苗が延びていた。線路は時々溝や小川の上を跨っていて、私達は枕木伝いに渡らねばならなかった。

  <多摩川の土手から河原に下りると月見草が・・このところ略>

「七時五十五分、最終のガソリン・カアで、私達は是政の寒駅を立った。乗客は、若い娘が一人、やはり釣がえりの若者が二人、それにO君と私とだった。自転車も何も一緒に積み込まれた。月見草の束は網棚の上に載せ、私達はまた、運転手の横の腰掛に掛けた。線路の中で咲いた月見草を摘んでいた女車掌が車内に乗りこむと、さっき新聞を読んでいた駅員が駅長の赤い帽子を冠り、ホームに出て来て、手を挙げ、ベルを鳴らした。
  ガソリン・カアはまた激しく揺れた。私は最前頭部にあって、吹き入る夜風を浴びながら、ヘッドライトの照らし出す線路の前方を見詰めていた。是政の駅からして、月見草の駅かと思うほど、構内まで月見草が入り込んでいたが、驚いたことには、今ガソリン・カアが走って行く前方は、すべて一面、月見草の原なのである。右からも左からも、前方からも、三方から月見草の花が顔を出したかと思うと、日に入る虫のように、ヘッドライトの光に吸われて、後へ消えて行くのである。それがあとからあとからひっきりなしにつづくのだ。私は息を呑んだ。それはまるで花の天国のようであった。毎夜毎夜、この花のなかを運転しながら、運転手は何を考えるのだろうか?  うっかり気を取られていると、花のなかへ脱線し兼ねないだろう

 花の幻が消えてしまうと、ガソリン・カアは闇の野原を走って、武蔵境の駅に着いた。是政から帰ると、明るく、花やかで、眩しいほどだった。網棚の上から月見草の束を取り下ろそうとすると、是政を出るときには、まだ蕾を閉じていた花々が、早やぽっかりと開いていた。取り下ろす拍子に、ぷんとかぐわしい香りがした。私は開いた花を大事にして、月見草の束を小脇に抱え、陸橋を渡った。


上林暁 1902~1980年
「花の精」1940年発表(作者38才)から1940年以前の是政線ということになる。
是政線に在籍していたカゾリンカーは1928年製キハ10形(木造)と1938年製キハ20形(鋼板)がある。どちらも2軸ガソリンカーだが木造のキハ10形には素晴らしい風情がある。

キハ10形 武蔵境駅1937年
「写真で見る西武鉄道100年」 ネコパブリッシング

北多磨から是政へ向かう。1962.8.27 (ベタ焼プリントからの画像)
多摩川べりの是政というところへ行けば、すぐ川の向こうへ山が迫っているという。「花の精」より。写真の1962(昭和37)年の是政線は小説のずっと後だが、一面の畑と多摩川の向うの山並みが見える。戦前戦後の風景をまだ残していたのだろう。

 北多磨駅 1962.8.27
小説ではここで下車し是政まで歩いている。

是政駅

 是政駅 1962.8.27





北多磨(現白糸台)から是政まで.