案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2017年3月6日月曜日

旧東海道を行く木造ポール電車3 リニューアル

廃線直後に鉄道線大場車庫に集められた車両は休車1廃車体3を含め計10両で、半年後に訪問した時もそのままの状態でした。旧東海道を走った木造ポール電車の車両一覧としてみました。


モハ15(雨宮製作所製) 15~17が大雄山線から昭25年に転入.元鉄道線用でかなり車体が大きい.1963.2.22
モハ16(雨宮製) 1963年7月
モハ17(車体は鶴見木工製)
木瀬川橋流失後、沼津駅に取り残された2両はこの17と203であった.

モハ206(田中車両製) 旧西武 1963年7月
モハ206と同型のモハ205 旧西武

モハ8  旧武蔵野中央電気鉄道軌道線.大雄山線を経て昭和24年本軌道線へ.
当線唯一の半鋼製で廃線時は休車中. 

モハ201(枝光鉄工所製) 旧西武

モハ202(汽車製造製) 旧西武

モハ204 旧西武 元はオープンデッキ.
モハ204と同型の203 旧西武

参考文献: 鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第4分冊

2017年3月3日金曜日

旧東海道を行く木造ポール電車2 リニューアル

廃線前の昭和36年に台風で黄瀨川に架かる橋が流出し、三島広小路から沼津行きは国立病院前で折り返し運転となり、その先の国立病院前~沼津間は代行バスを運転していた。川向うの沼津側に残された3両は廃車になり、最終日まで残ったのは7両(内1両休車)であった。

ED11(元国鉄アプト式電機ED40形)の背後に見える軌道線の車両.大場工場

鉄道線の大場工場に集結した軌道線の車両.1963.2.22
最終日まで残った7両がそのまま留置されていた.

廃線記念にオープンデッキの花電車3号に改造されたモハ202.
201と202の西武時代はこんなオープンデッキで伊豆箱根転入時にドアをつけた.
モハ202

モハ201.202と伴に西武から昭25年譲受、枝光ペックハム系台車が美しい.

モハ201の車内

モハ15(元大雄山線)車中から見た隣の運転台が異様に低いモハ206頭部.

最後まで残った小ぶりで頭が下がった最も魅力的な電車モハ206   5か月後1963年7月

以下は大場工場風景
モハ45さてこの車両は何か? 
昭和29年に国鉄から譲受けた電車で、伊那電気鉄道買収のデ200が前身である.大雄山線モハ45で活躍していたが昭和34年に西武から来た車体に乗せ換えた.写真↑はモハ45鋼体化で不要になった廃車体.(鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第6分冊より)
大雄山線の鋼体化後モハ45  1963.2.22

大雄山線の木造車クハ20形の23.同型の木造車22と24が大雄山線で活躍していた.



鉄道線大場工場の中では西武へ発注したモハ1000系の自社艤装中であった.
昭和38、39年に2編成6両が導入された.車内のクロスシートが見える.

2017年2月26日日曜日

旧東海道を行く木造ポール電車1 リニューアル

2011年5月に投稿した伊豆箱根鉄道軌道線、あれから6年が過ぎ、今のフォーマットに合わせてリニューアルします。当時のコメント欄はそのまま残してあります。

旧東海道の未舗装路の脇を木造ポール電車が三島と沼津の間を走っていた。この軌道線がまもなく消えるのを知り、正確な廃線日も知らずに訪問したのが1963年2月22日、廃止して18日が経っていた。旧東海道を行くこの素晴らしい軌道線の光景を僅かの差で逃してしまい悔しい思いをした。三島広小路の駅は何もかもがそのまま残っていて今にもポール電車がやってきそうな雰囲気があった。

その先には外されたレール、道路の凸凹など軌道の形跡残す旧東海道が沼津方面へと続いていた。幸い車両の殆どは鉄道線大場工場に集結し解体前であり、軌道跡からポール電車が走っていた光景を想像することができた。素晴らしき伊豆箱根鉄道軌道線。
1963(昭和38)年2月4日が最終日であった。

旧東海道脇のドロ軌道を、三島広小路から沼津までポール電車が走っていた風景.
廃線直後の道路に外されたレールと軌道跡の凸凹が残る. 1963.2.22

鉄道線の三島広小路から軌道線が出ていた.廃線直後の駅はそのままの状態で、今にも電車がやってきそう.

三島広小路を出ると右にカーブし旧東海道に入る.左は鉄道線への連絡線

部分拡大してみると、中華料理店の支那忠、その隣に映画館のミサイル珍道中の看板が並ぶまるで模型のような昭和の街並み.

廃線直後の三島広小路の商店街.軌道跡は舗装路に.

線路がはずされた旧東海道.

国立病院前の一つ手前 長沢にあった車庫. 
 
長沢車庫から三島方面を見る.道路の右側が廃線跡

2017年2月17日金曜日

国鉄横手機関区の片隅で TMSに掲載した写真

横手機関区の片隅でひっそりと生息していた羽後交通横荘線。2011年に本ブログで1回だけ車両を主体に取り上げたことがあります(横荘線1回目)。 今回はあの古ぼけた小さな機関庫と国鉄横手機関区の位置関係が気になって写真を並べ確認してみました。

横荘線は横手駅を発車すると国鉄の線路の合間を縫って横手機関庫の脇を通り、その先にある横荘線の小さな機関庫の脇を抜け畑に出て奥羽本線と並走していた。
撮影 1966.03.04

横手駅を発車した列車は奥羽本線と国鉄横手機関区の合間を縫って南下する(再掲)


国鉄機関区と横荘線機関庫はこんな配置だったのでしょう.構内配線図は略図です

その先に横荘線の機関庫があり奥羽本線と並走する横荘線が南に延びる.

横手へ到着する気動車が機関庫脇の線路を通過する.

横荘線機関庫を背にして奥羽本線と並走する横荘線の混合列車.遠くに見える横手機関区の煙.

北(横手駅)側から見た横荘線の機関庫

キハ2、3は2台ともバケット無し側が南側となる.

機関庫に対面して横手駅側にもう一つ格納庫があった.背後が横手機関区.

以下は国鉄横手機関区と横手駅.
煙だらけの横手機関区(再掲)

横手駅から横手機関区の脇を南に向かう線路.

横手駅の奥羽本線 特急つばさ

横手の街

2017年2月15日水曜日

水浜線シリーズを終えて

大貫停留場  1966年5月 撮影:青蛙氏 


田んぼの中を走る路面電車. 1966年5月 撮影:青蛙氏 


2013年11月29日の青蛙さんからのメールに添付されていた水浜線の衝撃的な大貫停留場の1枚。これが本ブログで水浜線を取り上げるきっかけでした。青蛙さんの画像が暫く続いた後、田辺さんが4回訪問した画像が見つかり水浜線の記事は計18回も続きました。

水浜線がこれほど魅力ある路線だったとは!!  私は最近になってそれに気付きました。田辺さんは4回訪問して沿線各所を撮影されましたが、水浜線の魅力はまだまだ尽きないようです。
水浜線の風情溢れる魅力は今に至るまで殆ど知られていなかったと思います。市内大通りを走る風景はどこでも見られた路面電車風景ながら一歩専用軌道へ入ればそこは別世界であった。車両写真を大通りと浜田車庫で撮ればそれでおわり、そん車両ファンが多かったのかもしれません。

当時は鉄仲間で訪問の成果(写真)を見せ合うことはなく、水浜線未訪問の私にとってその素晴らしさは知る由もありませんでした。約50年を経て初めて写真で見た水浜線の魅力、この鉄道風情にタイトルを付けるとしたら「海辺のトロリーライン」とでも、これはぜひ廃線跡めぐりに行かねばなりません。軌道跡の小路に立つと潮風、匂い、陽光など当時の空気を感じることが出来るかもしれません。

水浜線最終回の記事に戴いたコメントをここに紹介させてもらいます。

4月中旬の日を浴び、新緑が始まる頃の木立、低い植栽には春の花が満開.
谷田~浜田  1964.04.13  撮影: 田辺多知夫氏

何も説明がいらない感動の一場面. 大串 1966.05.30
撮影: 田辺多知夫氏 
匿名


 匿名 さんは書きました...

素晴らしかった水浜電車こと、茨城交通水浜線のシリーズをありがとうございました。数々の素晴らしい光景に、思わず我を忘れて見入っておりました。こんなにも素晴らしい軌道線(路面電車)があった事、それをこのように纏まった記録にされて事は、後世への画像遺産として誠に相応しいものと思われます。

思えばかつて、あちこちに素晴らしい路面電車が存在していました。私の地元にも、伊豆箱根鉄道の島津軌道線(三島~沼津間)がありました。その廃線跡となった道路を、たびたび所用にて車で通行します。そのたびに、よくもこのような狭い道路(旧国道1号線)に、曲がりくねった路上に、ポール集電の電車が走っていたものだと感心します。そして古地図に現状を重ね、その沿線にあった素晴らしい光景を想像しております。

このたびの水浜線は、その沿線風景の変化の大きさに驚かされます。ことに海岸の風景、松林の傍らを走る姿や、鄙びた漁港の終点に向かって走る姿は感涙物です。その一方で海水浴客が押し寄せ、旅客輸送に翻弄された夏の風物詩など、人々に永遠に伝えられるべき存在の軌道線だったと思います。その姿を現実の物とし、シリーズで掲載して下さった事に、重ねまして心より御礼を申し上げます。これからもぜひ頑張って下さい!