案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2013年3月4日月曜日

頸城鉄道 夏の百間町


762mmゲージの草むした軌道が百間町の先で左へカーブし新黒井まで一直線に進む。遠くに新黒井に向けて過ぎ去った列車が小さく見え、あたり一面は真夏の太陽が照りつける田園風景が拡がる。この百間町~新黒井間が部分廃線となるずっと前の1962(昭37年)、頸城鉄道はまだまだ元気があった。

赤字路線であったが豪雪地帯の冬の交通として存在し、この頃は廃線の話しも全く聞かれなかったそうである。百間町の車庫にいた豪雪に備える車両達は冬になれば毎年活躍していた。

百間町には頸城鉄道自動車㈱の本社があった.
翌昭和38年には創業50周年を期して直江津に新社屋を作って移転した.

夏の百間町駅 1962.08.03

百間町の機関庫の中ではDB81が休んでいた.

元々はホハ3で、動力化でホジ4となり、その後また客車に戻されたホハ5.
ホジ4の時代は客室の両端右側に運転席があり、デッキと客室の間のガラス窓から前方を見て運転していたというゲテモノ.ホジ4を想像すると密閉式のホジ3がまともに見えてしまう.
頸城と言えばこの方「夢遊生活の日々」さんの車両工作室にホジ4のことが紹介されています。

十勝鉄道からやってきたDC123. 冬の除雪で重用されていた.

コッペル2号機

豪雪時期には活躍したラッセル車 ラキ1(元国鉄魚沼線)

構内の除雪用に使われた貨車を改造したロータリー車 ロキ1.
百間町のこれらの車両は全て現役であった。


6年後の昭和43年夏の百間町駅.1968.08.18


参考: 鉄道ピクトリアル私鉄車両めぐり第5分冊 頸城鉄道

2013年3月2日土曜日

華やかな私鉄ターミナル駅

3月16日から地下駅がスタートする東横線渋谷駅。
地上駅の機能はまもなく停止し、私鉄ターミナル駅の風景は消滅する。
そんな消え去る風景の最後を切り取ってみました。

正面階段を上がって出発ホームに向かう私鉄ターミナル駅らしい風景. 2013.02.27

華やかなホーム4面4線の私鉄ターミナル駅

カマボコ屋根の駅とその線路下に展開する「東横のれん街」

華やかさの裏面は、上と下を246号に挟まれた駅のゴチャゴチャ感が魅力的.

ホーム4面4線のターミナル駅

2013年2月19日火曜日

頸城鉄道 夏の浦川原駅1968年

1962年から6年が過ぎた浦川浦駅は以前と変わらない夏の風景であった。
この年の9月末に飯室~浦川原間の部分廃線を迎え、こんな浦川原駅の風景も消える直前であった。

駅には以前のように貨車の姿が見えなかったが、小さな貨車は貨物長大編成へ出動していたのだった。
部分廃線を迎え貨物輸送も廃止されるというのに、小さな貨車で新黒井まで輸送する荷がまだあったということになる。この夏の貨物長大編成のことは以前「頸城鉄道4 頚城の貨物」で紹介したことがあります。



今もこの場所に残る浦川原駅の駅舎.

待合室の掲示板によると、浦川原から松代(マツダイ)、松之山温泉、十日町などへ向かうバス路線があって、直江津へもバス路線が繋がっていた.1968年ともなれば道路の整備もかなり進んできたと思われる.



ホームでは客車改造の気動車ホジが発車待ちしている浦川原駅. 1968.08.18
軽便としては立派なこんな駅の風景を1968年夏はまだ見る事ができた.

浦川原駅の構内.
こんな長閑な風景も、今ではこの線路跡地に立つ高架の上を「北越急行ほくほく線」が走る.

のどかで素晴らしい軽便風景があった浦川原の昼下がり

以前「頸城鉄道4 頚城の貨物」で紹介したことがある貨物長大編成. 百間町

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2013年2月17日日曜日

頸城鉄道 夏の浦川原駅1962年

頸城鉄道が新黒井から浦川原まで繋がっていた元気な時代の軽便鉄道。
部分廃線する前でまだ貨物輸送があった夏の浦川原駅を1962(昭37)年と1968(昭43)年に分けて取上げてみます。この頃は自動車時代到来で真っ先に消えた軽便貨物輸送の最後の活躍数年間だったのでしょう。

新黒井で国鉄と接続していた時代は米どころ新潟の軽便貨物輸送も活発でホジの乗客も多かった。しかし1968(昭43)年秋の新黒井~百間町間と飯室~浦川原間の部分廃線により、貨物輸送が廃止となり陸の孤島となった頸城鉄道は一気に終焉ムードとなってしまった。


夏の浦川原駅の全景 1962.08.03

線路の脇には床屋や中華ソバ食堂があった.

ホームでは混合列車が発車を待っている.薪を満載した無蓋車が愉快だ.
この日はホジ3が牽く列車と、DC92が牽く列車が活躍していた.

貨物引込線のホーム上ではトラックからちっぽけな貨車へ米俵が積込まれ、新黒井まで輸送して国鉄貨車へ積換えしていた。急速な自動車の普及により、非効率な軽便貨物輸送はあっという間にトラック輸送へ切替わって行った時代で、頸城鉄道も部分廃線により貨物輸送がなくなり、その後1971年5月に全線廃線となった。

駅の一番奥にはホハ4(元2・3等合造車ホロハ2)が休む.
背後に写った民家や床屋が興味深い.

2013年2月16日土曜日

流山電気鉄道の車両

昭和38年頃の流山電気鉄道の風景を2011年2月に紹介しましたが、今回は車両編をアップします。
この頃の車両は元南武鉄道のモハ100形(101,102,103,105)が主力の時代であった。

流山駅のモハ101   1963.03.31

お椀型ベンチレータのモハ103   馬橋 1962年3月
美しいボールドウィン台車

モハ105  流山 1962年3月

モハ102  馬橋  1963.03.31


モハ102  流山 1962年3月

西武クハ1215(元武蔵野鉄道サハ)を1963年に譲受したクハ52。 流山 1963.03.31

モハ100形と組んだクハ51(元豊川鉄道クハ60形) 流山 1962年3月

車庫の奥にあった元ガソリンカーのサハ31 1963.03.31

元ガソリンカーのサハ32 1963.03.31

貨車を従えた混合列車.この頃は流山から「万上みりん」工場への引込線があった.1963.03.31

2013年2月13日水曜日

松本電鉄浅間線、早朝の温泉行き電車

夜行列車で夜明けの都市に到着すると、うす暗い駅前通りに路面電車が停まっている。
こんな早朝の駅前光景を1960年代には各地で見掛けた。

朝5時前に到着した松本駅は夜行でやってきた登山客で賑わい、登山客が向かう上高地方面とは反対の東側に開けた松本市街を浅間温泉行の電車が走っていた。
温泉行電車の撮影は、こんな登山客を除けば早朝でひと気のない松本駅前からスタートした。

陽が出てからの浅間線の紹介は「松本電気鉄道 浅間線」 にあります。

始発前の浅間線松本駅  1963.7.20
まだ薄暗い国鉄松本駅の片隅に、うす汚れた2両の木造電車が休んでいた.
ひと気のない駅と電車はまるで廃線後のようであった.

早朝のひと気のない松本駅前で登山客を満載したバスだけは賑わっていた.
やがて朝の1番電車が発車しガタゴトと松本駅前に出てきた.

早朝で車や人は少なく、静まりかえった松本の大通りを行く電車.

電車の脇を松本駅へ向かうボンネットバスが連なっている.

学校前の急カーブを曲がり未舗装の併用軌道を行く.

併用軌道から専用軌道区間へ入ると、家並みの間をくねくね曲がって走る.学校前-清水

2013年2月11日月曜日

北勢線 西桑名駅風景

三重電気鉄道(旧三重交通) 北勢線は近鉄に合併し、その後、三岐鉄道の北勢線となって近代化軽便として今も走っている事は良く知られている。訪問した1965(昭40)年は近鉄と合併した年で、近鉄化直後で北勢線西桑名駅は車両やカラーリングに三重交通時代の面影を残していた。
近鉄化直後の北勢線は車体色が三重交通色(緑と肌色のツートンカラー)から近鉄色(ブドウ色一色)へ変更されている過渡期であった。
現在の北勢線の風景はKumaさんの「北勢地方のナロー達」に紹介されています。


美しいツートンカラーに塗られた3車体連接車 モ200形202 西桑名 1965.08.05
この後マルーン一色となり電装解除となる.

真夏の西桑名駅 モ224

同じ電車でも2種類のカラーリングが登場した. モ227

阿下喜駅に隣接した鉄道博物館に近鉄色で保存されているモ226.

西桑名駅ホームの脇にある車庫に休む車両達. 
この頃はまだ三重交通時代のツートンカラーが多かった.


モ226

サ135

3車体連接車 モ200形に準じた仕様のサ140形146

サ150形156

ワフの車体も「近畿日本鉄道」に書き換えられている.