案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年5月28日月曜日

お知らせ

5月28日発売された講談社発行「究極のナローゲージ鉄道 せまい鉄路の記録集
に私の井笠鉄道の画像が25点ほど掲載されました。
著者は軽便でお馴染みの せんろ商会( けいてつ協会本局 ) 岡本憲之さんです。

サイズ:B5判
ページ数:159

2012年5月24日木曜日

都電 銀座通り

昭和42年11月の銀座四丁目の光景。これを撮った14日後の12月9日を最後に1系統他と伴に8系統(中目黒~築地)、4系統(五反田~銀座二)も銀座四丁目から消えた。
昭和41年に大衆車サニー、カローラが発売され、晴海で開催された東京モーターショーは大変な熱気であった。この銀座四丁目の晴海通りはそんなマイカーが身近な存在となってきた車社会到来の時代が思い起こされる。街行く人々に夢と希望が溢れ、昭和40年代の日本は経済大国への道をまっしぐらに進んでいた。


銀座4丁目の光景. 三越が改装中 1967.11.26 クリックで拡大


4丁目の中央通りを行く4系統五反田行

2012年5月22日火曜日

都電 古川橋の昭和42年と今

街の変貌ぶりはGoogleストリートビューで鮮明に見れますが、それだけでは判らない何かを求めて
自分の足で歩いてみました。

↑古川橋側から見た「魚藍坂下」電停あたり      1967.12.03
魚藍坂の交差点を過ぎると直ぐに「魚藍坂下」電停に到着する.

↓ここでゆるくカーブすると首都高下の古川橋電停に到着する.
古川橋手前の通りの昭和42年と今. 
当時「古書買入」「小川商店」や「写真スタジオ」の看板を掲げていた店は今もある.

2012年5月19日土曜日

都電 魚藍坂を行く

最近、地下鉄南北線・三田線の白金高輪駅で降りて大通りを古川橋方面に歩いたことがあったが、
都電が走っていた魚藍坂は確かこの辺だった筈なのにサッパリ判らず。
いったい白金高輪の駅は昔の都電でどの辺りなのか? 魚藍坂はどこにあったのか?
現在の地図に昔の都電の経路を書いて都電を撮った位置を確認してみました。



五反田からの国道1号桜田通りは現在の地下鉄「白金高輪」駅のところで右に曲がり、その先で都道415号「高輪麻布線」と交叉する。ここが魚藍坂の交叉点で5、4系統は都道「高輪麻布線」に入り魚藍坂を下って古川橋に出た。

当時(昭42年)、国道1号桜田通りの片側3車線はここで終わり、右に曲がり片側1車線となる.
この片側3車線の道路を直進し古川橋へ下る道路はまだ出来ていなかった.
この交叉点の処に今の地下鉄「白金高輪」駅ができたのだった。 1967.12.03
地下鉄「白金高輪」駅ができた現在の風景. 2012年5月

 
桜田通りを進んで魚藍坂交叉点を曲がり都道「高輪麻布線」に入る5、4系統
クリックで拡大

 
魚藍坂といえばカツミ模型店、店はこの魚藍坂の交叉点の近くにあった。

坂を下ったところが魚藍坂下で、その先の古川橋に開通直後の首都高速が見える.

2012年5月18日金曜日

都電 品川駅前

清正公前で4系統(五反田駅前~銀座二)と合流した5系統(目黒駅前~永代橋)は桜田通りを進むと
魚藍坂の交差点に出ます。ここで合流する7系統(品川~四谷三)を魚藍坂の向こう側 泉岳寺前に
下って品川駅前に出てみました。


7系統品川駅前行は魚藍坂の交叉点を過ぎ急な坂を登る. 1967.12.03

2012年5月15日火曜日

都電5系統 白金を行く

渋谷から34系統に乗って明治通りを渋谷橋、天現寺橋と進むと古川橋に到着します。昭和42年の古川橋界隈は道路拡張の工事中で殺風景な風景ばかり。ここは後回しにして古川橋を通る5系統(目黒駅前~永代橋)を目黒駅前から古川橋までおいしい処だけ追ってみます。

「祝目黒駅完成」の表示から目黒駅ビルが完成直後だったのでしょう.
目黒駅ビルは築後45年経って今も変わらない.
手前の分岐線は目黒車庫へ向かう.1967.12.03

2012年5月13日日曜日

都電で通学していた頃2

通学路だった34系統の渋谷橋から分岐していた8系統を終点中目黒まで進んでみます。
恵比寿~中目黒一帯は今やお洒落な街になっているようですが
そこの駒沢通りを小型車1200形が昭和42年まで走っていました。
通学では使っていませんでしが、小型車の走る枝線にいつも惹かれて
廃線直前になって初めて中目黒を訪問したものです。


山手線恵比寿のガード下をくぐる中目黒発築地行. 1967.12.03

2012年5月10日木曜日

西武新宿線 朝の101系

今朝、家を出たとたん階下から凄い轟音が聞こえてきたので
もしやと下を見ると何と101系10連の急行が新宿へ向かっていた。
昨年の3月ダイヤ改正以降、平日朝の101系定期運用は無くなったようで
最近は諦めていたが今朝見たのはいつもの朝の急行101系(8+2両)の編成であった。
早速、お決まりの定点観測ポイントで待って、
新宿から引き返してくる下り列車の先頭に連結された101系2連を狙った。

下り新所沢行. 301系(8連)+101系(2連295+296) 武蔵関-東伏見 2012.05.10  クリックで拡大

101系急行は8両+2両の編成だが、通常は写真のように101系2連が川越側に連結される。
ごく稀に2連が新宿側に連結される事があり、その時は上り先頭車が魅力的な2丁パンタ車となる。
今や新宿線に残された101系2連はこの1編成くらいか?

注) 新101系やN101系の新or Nの表示は省略してあります。

2012年5月9日水曜日

都電で通学していた頃1

4月26日に渋谷東口にオープンした「渋谷ヒカリエ」と云えば、
東急文化会館前にあった都電の風景を思い出します。
学生時代に渋谷東口から都電34系統に乗って通学していました。
この頃は地方へ頻繁に撮りに行っていたのに、何故か毎日お世話になっている都電は全く撮ってなく、
廃止が迫る昭和42年頃になってようやく撮った都電。


34系統(渋谷~金杉橋)   1967.12.03 クリックで拡大
34系統は1969年10月に廃止

2012年5月8日火曜日

同和鉱業小坂鉄道線

東北の鉱山ナロー小坂鉄道は昭和37年10月に1067mmに改軌され、
私が訪問した昭和41年3月時点での鉄道名は同和鉱業小坂鉄道線(乗車券による)であった。
奥羽本線の大館から小坂線と花岡線が出ていて、ありふれた気動車と機関車の風景になっていた。
ナロー時代の小坂の客車は軽便とは思えない立派な体格で、転出先の越後交通栃尾線での
姿を2点添付してみました。

花岡ゆきと小坂ゆきの発車案内が表示された大館駅. 1966.03.05  クリックで拡大



花岡ゆきと小坂ゆきの発車案内が表示された大館駅. 


花岡線と小坂線が別れる.

小坂からやってきた貨物列車が凍りついた田んぼの中を走る.
 

大館駅構内の貨物作業


栃尾線に転じた小坂鉄道の客車5両。  長岡 1964.3.22

栃尾線に転じたホハ30 (元小坂鉄道のハ10)。 同時にやって来た他の5両とは外観が異なる。 悠久山 1964.3.22

2012年4月28日土曜日

北陸鉄道 小松線2

その後小松線を訪問したのは仕事で小松へ出張したついでに立寄った1967年と1976年の2回だけで、
尾小屋鉄道のついでに小松線を訪問したのは初回の1962年だけでした。
やはり尾小屋鉄道訪問時は小松線まで手が回らなかったということに。

初回訪問から5年経った1967年はまだ2両の小型車モハ1000形が健在で、北陸鉄道金石線からきたモハ1201も見られた。ともに全長11.8mの小型車で日鉄自動車製と木南車両製で似たような電車をよく揃えたものである。前回(1962年)に見た雑多な車両達は一掃されてしまったようだ。


小型車モハ1001(車庫)と1002(駅).小松   1967.09.29

2012年4月27日金曜日

北陸鉄道 小松線1

北陸鉄道の紹介で最後となった小松線です。

尾小屋鉄道と小松線を初めて訪問したのは1962(昭37)年であった。
この時に見た単車やトレーラの凄い車両達はこの後1963~1965年にかけて廃車されてしまった。
昭和37年頃の時代は、どこの小私鉄でも戦後を生き延びた凄い車両達が最後を迎えていた時代であったような気がする。
この小松線も、この後に北陸鉄道金石線のモハ3000形5両に置き換えられると平凡な路線になってしまった。

小松線の小松駅. 駅には「ハニベ厳窟院大佛 北陸鉄道」と書かれた看板が.1962.08.01

庫内に休む主役モハ1002は日鉄自動車製の全長11.8mの可愛いい電車.


サハ511(元金石電気鉄道の客車)


モハ501(白山電気鉄道生え抜き) 503はボギー貨車に改造されて加南線にいた.
ブドウ色の単色 小松製作所プレス工場の脇にあった小松駅


サハ511(元金石電気鉄道の客車)

モハ502(白山電気鉄道生え抜き) このツートンが西鉄似カラーか?

これは凄い! 電車崩れの客車サハ571(元温泉電軌デハ15)

小松駅全景


直ぐ近くにある尾小屋鉄道の機関庫ではDC121が出動するところで
落着いた濃淡緑に塗られた旧塗装が印象的であった.

2012年4月25日水曜日

歌川模型店

吉祥寺散策について別のお出かけブログ(日記)によく取上げたことがありました。
過去のブログを改めて読み返してみると消えゆく昭和の街並のことが思い出されます。

吉祥寺ハモニカ横町で歌川模型店があったのは遠い昔のこと? 一体いつ頃まであったのか?
写真を撮ったのは2005年3月が最後でこの年に店は郊外へ引っ越してその後そこも閉店したようです。
かってこの通りには民芸酒蔵「峠」もあり、この様な店が最近まで存在していたことが信じられない。
いかにもハモニカ横町らしい通りであった。

今の風景.歌川模型店があったところにはラーメン店(塩トマトラーメン旗)が.
今もある「みんみん」餃子店から位置が分かる.2012.04.24


ここに昔ながらの歌川模型店があった.  2005.03.03
となりの店(果実の看板)は今も残る.
ショーウンドウには子供の頃に憧れた3線式0番模型などが並んでいた.



今の風景.民芸酒蔵があったところは新業態の今風の店に.2012.04.24
ここに民芸酒蔵「峠」があった. 2005.03.03


2012年4月23日月曜日

西大寺鉄道8 ボギー気動車キハ6

廃線間際まで活躍していたボギー車のもう一台がキハ6でなんとも平凡な気動車です。
有蓋貨車の牽引はもっぱら流線形のキハ7の方でした。

 
西大寺市駅を発車したキハ6  1962.7.29

 
西大寺市駅風景
西大寺市駅では車両ばかり撮ってしまい駅舎が全く写ってなく惜しい事をした.


まもなく開通する国鉄赤穂線(1962.9.1開通)を横目に見て走るキハ6 
広谷-西大寺市 1962.7.29

2012年4月22日日曜日

西大寺鉄道7 ボギー気動車キハ7

また一気に50年も昔の西大寺鉄道にもどします。
今年の夏には西大寺鉄道は廃線50周年になります。


西大寺市へ延びる地方私鉄唯一の914mmゲージの軌道.  1962.7.29


この日の丸型気動車キハ7は有蓋貨車を牽いて往復していた.
極小アーチバー台車を履いた貨車に一体何を積んでいたのだろうか.
まもなく廃線というのに.


角型キハ6と丸型キハ7のバケットが並んだ財田駅の交換

キハ7の大アップ   財田

 

キハ7の車内ではバスと同じ制服を着た運転手さんが新聞を読んで発車を待っていた.
ひと気のない後楽園駅のノンビリとしたひと時.


西大寺市駅があったところに保存されているキハ7.  1998.2.16