案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年12月16日木曜日

東急玉川線 砧線の今と昔1

国分寺崖線に沿って流れる仙川沿いに成城から二子玉川まで歩いてみました。

国分寺崖線の自然が残された外岡本静嘉堂緑地あたりから南下すると、あの吉沢橋交差点に出る。ここは昔、玉電砧線の踏切があり、その脇が吉沢駅でその先に軌道の鉄橋があった。
子供の頃、兄の蛇腹式セミ判カメラを借りて、ここで砧線を撮ったのが私のカメラ初体験であった。
その後撮った1962(S37)年の光景をスキャンしてみると、激変の砧線そして二子玉川界隈であった。



仙川沿いに遊歩道を歩き南下して二子玉川方面へ。 '10.12.15


吉沢橋交差点。  '10.12.15
昔、手前(二子玉川)から来た砧線は、多摩堤通り(左右に走る)を横切ると
右手角のマンションの前あたりに吉沢駅があった。
その先にあった吉沢鉄橋(軌道専用)は、今は大きな道路の橋になっている。
小さな吉沢鉄橋を渡っていた砧線。道路はなく軌道専用の橋であった。  1962年12月
吉沢鉄橋。


↑ カーブして二子玉川駅に侵入する。右は玉川線本線。
背後の崖が国分寺崖線で等々力方面へ続く。
夕闇せまる玉川線の二子玉川駅。ホームの右に砧線が停車している。

右の一段上がったところが大井町線のホーム。


昔の寂しげな駅からは想像もつかない光景に激変した二子玉川駅前。'10.12.15

2010年12月14日火曜日

九十九里鉄道の模型

九十九里鉄道に係わる雑誌や模型キットを並べてみました。


キハ104   撮影: 飯島巌氏


鉄道ピクトリアル臨時増刊 「私鉄車両めぐ」第1分冊。
鉄道模型趣味No.81 海辺の小私鉄を訪ねる(Ⅱ) 九十九里鉄道。
オレンジカンパニー1/80ナロー模型キット。

すり切れるくらい読んだ雑誌、そしてオレンジカンパニーの九十九里の模型キット。
雑誌で見た光景をいつかは模型化しようと、軽便模型のキットを集めたことがあった。
一時期、HO(1/87)ではなく、1/80でオレカン、ひかり模型、しなのマイクロなどから
9mmナローが発売されたことがあり、昭和の情景はやはり1/80でないと。

廃線間際の九十九里鉄道 2

東金と上総片貝を往復する列車。  1961年2月

東金駅

国鉄東金線東金駅に隣接した九十九里鉄道の東金駅。


ボギー客車のケハ111とケハ107  東金

撮影: 全点 飯島巌氏

2010年12月13日月曜日

廃線間際の九十九里鉄道 1

1961(S36)年2月28日に消えた憧れの九十九里鉄道。
私は九十九里には行ったことがなく、高校の同級生だった飯島巌(故人)さんが廃線間際に撮ったもので、ご家族の了解を得てアップします。

昭和36年2月3日付謹告と2月21日付お知らせ。

当時、私はまだカメラを持っていなかった。同級生にまさか九十九里鉄道を撮りに行く鉄道ファンが二人も居るなど思いもよらず、独りで行くには九十九里は遠い地であった。
飯島さんからプリントを貰い大事に保管していたもので、上総片貝の待合室で撮られた1961年2月3日付「廃線の謹告」と2月21日付「定期券のお知らせ」からすると、廃線数日前の撮影と思われる。
飯島さんのカメラアイは10代半ばにして素晴らしく、愛らしい車両が走っている光景や、駅の光景など九十九里鉄道の日常を切り取っている。この当時から車両写真ではなかったのだ。
この数日後には全てが停止し消滅してしまった九十九里鉄道最後の日常光景。

小さな単端キハ103が3両も牽いてノソノソ走る。  家徳 1961年2月

キハ103 に牽かれるケワ + ハニフ + ケハフ301。ボギー貨車で運ぶ荷物がどの程度あったのだろうか。  家徳

終着駅上総片貝の駅前風景。
併走する東金~片貝間のバスを増発することで廃線が決定。

終着駅上総片貝 発車を待つキハ104


単端式ガソリンカーは運転手と女性車掌によって方向転換される。
生活感溢れる洗濯物や布団は、ここに駐在する人のものか。 上総片貝

撮影:全点 飯島巌氏

2010年12月12日日曜日

東野鉄道 廃線跡めぐり 大田原

1966年に撮った大田原の駅と、現在の風景とを比較してみました。

左手の駅本屋~線路~ホームが現在のスーパー、右手の貨物線あたりが現在の道路と推定される。現在あるぽっぽ通りと、今も残る若林肥料店倉庫の蔵の位置は昔のままと思われる。
大田原駅の全景。遠くに那須の山並みがよく見えた。 1966.12.30


大田原駅の本屋と駅前風景。

現在の地図上に、ポッポ通りと若林肥料店倉庫を基準に昔の線路位置を推定したもの。



昔大田原駅があったところはスーパーがある風景に、そして微妙にカーブした道路。'10.12.07

黒羽方面行きホームと、その裏手にあった貨物線。 1966.12.30


右手にある若林肥料店倉庫の前に貨物引込線が延びている。
現在あるポッポ通りから駅へ向ってくる線路は、一直線ではない。

スーパー裏の道路の先に、今も若林肥料店倉庫の蔵(三角屋根)が見える。 '10.12.7

活躍していた頃は大田原を発車し黒羽方面に進み、トンネルを抜け蛇尾川の鉄橋に出る。
あの時(1966年12月)の復旧工事中の橋脚は今も残る。

2010年12月9日木曜日

東野鉄道 昭和14年に消えた区間

県立「なす風土記の丘資料館」で戴いた史跡マップを見ると、1939(S14)年6月に廃線になり1940年に撤去された黒羽~那須小川間の廃線跡らしき細い道路が那須小川に向けて南下していた。地元の人に廃線跡を確認しながらこのマップの細い道路(廃線跡)上を赤でなぞってみました。

廃線跡1

廃線跡である田畑の中を行く細い道は、旧陸羽街道に沿って一直線に走り、ほとんど家並みも何もないところを行き、昔の宿場町の脇をカーブして箒川の鉄橋を渡り小川の町に到着する。廃線後70年経った今も廃線跡の細い道は箒川まで殆ど残っていた。

黒羽方面側の廃線跡と那須の山々。1939(S14)年6月の廃線までここを走っていた。 湯津上近辺

大田原市歴史民俗資料館パンフレットより。


2軸ガソリンカーのキハ10,11(1929年製)や、ボールドウィンが牽く列車がこんな風景の中を走っていたのだろう。


小川方面側の廃線跡。一面田畑の中を一直線に廃線跡がどこまでも続く。 湯津上近辺。

どこまでも一直線に進む廃線跡。なす資料館の裏。

廃線跡2


なす風土記の丘資料館小川館。70年前の車窓にはこんな風景が?

箒川を渡り小川に入ったところ。

東野鉄道 廃線跡めぐり 黒羽

44年前に見た黒羽駅の光景や鉄道の沿線風景。あの時の12月午後の日差し、青い空に白い雲、遠くに望む那須の山々、那須おろしの寒風など、今も変わらぬであろう東野鉄道の空気を吸いに廃線跡を訪ねてみました。

黒羽へ向かう廃線跡  '10.12.8
廃線跡(道路)の先を右へカーブすると元黒羽駅に到着する。黒羽の町には那珂川が流れ、対岸に那珂川沿いに八溝山へ連なる山並みが続く。

茶臼岳を背景に大田原へ向かう廃線跡。 白旗城址前停留場はこの辺り。
反対側の大田原方面を見ると、日光から連なる那須の山並みが背景に。12月の那須おろしの寒風が吹くこんな風景の中を、1968(S43)年まで流線型キハ501気動車などが走っていた。

黒羽駅の農業倉庫 '10.12.7
元線路(道路)が右へカーブして黒羽駅に入る処にあった農業倉庫は昔のまま連なり、手前にある赤い屋根の倉庫は当時の「農業倉庫」の文字と紋章がそのまま残っていた。


買い物客で賑わうこの場所が黒羽の駅であった。


黒羽駅があったところ。
農業倉庫とプラタナスの木を基準に駅の位置関係をみると、右手のスーパ「さかいり」が駅本屋、道路が駅ホームそして線路、左手のホームセンター「コメリ」あたりが機関区があった位置と思われる。


44年前の黒羽駅。  1966.12.30


昼下がりの東野駅。

2010年12月7日火曜日

東野鉄道 五日市鉄道から来た気動車

東野鉄道の初回(5月11日)にアップしたように、流された蛇尾川鉄橋の手前 西那須野~大田原を区間運転していたのが、元五日市鉄道の流線型17m車キハ501でした。
正面が国鉄42000と同型の流線型だが、42000のような3ドア大型車ではなく、41000に42000の丸い顔をつけたような好ましい気動車であった。オデコライトがとても魅力的。

西那須野と大田原間を往復するキハ501。  大田原近く  1966.12.30

西那須のから来たキハ501。 大田原近く
前回アップ済み画像を再調整しました。

キハ501。 41000の頭部に42000の流線型をつけたような気動車。