案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年7月31日土曜日

西大寺鉄道3 西大寺市駅

終点の西大寺市駅は、広い構内がありその先に車庫があった。普段使われることのない沢山の車両で車庫は満杯であった。ボギー客車だけで21両も保有している。これだけ多いのは年一度の西大寺裸祭りの客輸送のためだそうだ。 単端はキハ3~5とキハ8、10が休んでいた。巨大な単端キハ8、10は超ゲテモノである。

終点 西大寺市駅全景    1962.7.29

台車がとんでもなく小さいので、地べたを這いつくばって走る感じがいかにも軽便。
車輪径420、軸距840のアーチバー台車で、0番模型で作るのに最適。
木造ボギー客車群



ボギーのガソリンカーを真っ二つに切って、2両の単端としたキハ8と10。
巨大な流線型の単端 キハ8 と、その後のキハ5が可愛らしい。

  トボ + ワボ1 
  

2010年7月30日金曜日

西大寺鉄道2 財田駅

後楽園と西大寺の中間点あたりで山陽本線に接続する。
山陽本線の東岡山駅に隣接して西大寺鉄道の財田駅があった。
国鉄の貨物ホームと軽便の貨物ホームが繋がっていて、このホームで貨車の荷物が積み替えられた。昭和37年の廃線直前でも混合列車が走っていたので、最後まで貨物があったのであろう。                                                    1962.7.29


財田駅の全景

列車交換風景。バケットに自転車が積まれたキハ6と、右はキハ7。


  ワボ9

2010年7月28日水曜日

北陸鉄道能登線3 真夏の羽咋

片側バケット付キハ5162+単車コハフ1501の列車が、羽咋を発車し田んぼの中をやって来た。並行する国鉄七尾線の線路が奥に見える。 羽咋 1962.08.02


羽咋川の鉄橋を渡った先を左にカーブし七尾線をオーバクロスし、能登の海岸線へと向かう。夏休みで海水浴客なのか、車内は満員で気動車のバケットまで乗客が溢ふれていた。


片側バケット付で車体が大きいキハ5201が顔を見せた。
滝駅を過ぎると能登の海岸に接近する。  滝

2010年7月27日火曜日

北陸鉄道能登線2 真夏の羽咋

国鉄七尾線の羽咋から三明まで、北陸鉄道唯一の非電化線が走っていた。
終点の三明は松本清張の「ゼロの焦点」の舞台となった能登金剛の近くである。
1962年8月、金沢から七尾線に乗り羽咋で降り、北陸鉄道能登線を訪問する。
能登線は途中高浜あたりまでは穏やかな海岸線が続く。
波打ち際ぎりぎりを魅力的な気動車が走っていた。

1962年8月2日
尾小屋鉄道訪問の翌日、金沢から朝一で羽咋へ向かう。
国鉄七尾線に隣接した北陸鉄道能登線の羽咋駅構内には、様々な気動車が構内にたむろし、
1両1両みな外観が異なる個性豊かな魅力的な車両ばかりであった。

朝日を浴びた羽咋駅構内の全景、片側バケット付気動車が出発の準備に取り掛っている。

前面4枚窓両端バケット付キハ5151+コハフ3001の上り列車が
到着し、乗客は七尾線に乗換える。 


両端バケット付トレーラのコハフ5301翌年動力化され、
その後、筑波鉄道へ転出しお馴染みのキハ541に。


車庫に休んでいた前面3枚窓両端バケット付キハ5001が出動し、今日の準備に。

厳ついキハニ5102、出発前のひと時

2010年7月14日水曜日

島原鉄道

昭和42年の島原鉄道。
島原城から歩いて直ぐのところに島原鉄道の島原駅があった。街の風景も今では一変してしまっていることだろう。春の陽を浴び、のんびり走っていた島原鉄道は、今も諫早からこの先の島原外港駅まで走っている。

島原駅  1967.3.3

島原駅
島原駅
島原城から島原の街と駅方面を見る。遠くに島原湾の海が拡がる。
島原城

2010年7月7日水曜日

頚城鉄道 夏の新黒井駅

頚城鉄道。
1962年の夏、新黒井の駅は軽便列車に乗る乗客でけっこう賑わっていた。
また、小さな貨車で貨物輸送もやっていた。
大人も子供もこんな列車に乗れるのにワクワクしたことであろう。
駅前には、まだ木造の電話ボックスがあった。
1962.8.3



訪問のだびに寂れ、最後はこの駅も閉鎖され、
国鉄との接続がなくなり百間町発となった。
1968.8.18

2010年6月29日火曜日

三山線の終着駅 間沢

モハ107とモハ103→クハ化     1971.5.3
羽前高松から寒河江川に沿って30分程走ると終点間沢に到着する。間沢駅の先には山が迫り、ここから更に月山、湯殿山へと道は続く。月山に向かうには中途半端な終点だが、歓迎「月山夏スキー」の看板があった。 この頃は急激なマイカー普及の時代で、この3年後1974年11月に廃止された。鉄道撮影も車を使うようになり便利になったが、私の地方私鉄撮影も終焉を迎えていた。


モハ110形

モハ106

残雪輝く朝日連峰を背景に行く三山電車。 

果樹の花と月山

2010年6月27日日曜日

C13がいた片上鉄道


C13  和気  1962.7.28

片上鉄道は、同和鉱業柵原鉱業所がある柵原から山陽本線和気を経由し、赤穂線の備前片上まで鉱石輸送が目的の鉄道であった。
1962年の訪問時、C11と片上鉄道だけにいたC13が活躍していた。確か樺太鉄道のテンダー機をタンク機に改造した記事を読んだような記憶がある。大変珍しい蒸機C13にとりつかれ模型製作に取り組んだことがあった。

交換駅のキハ3004

2010年6月25日金曜日

9両の蒙古の戦車

蒙古の戦車は9両いて、それぞれカタチが異なる個性豊かな機関車であった。袋井駅で確認できたのは、DB604、DB607、DB608、DB609、DB601の5両であった。他は新藤枝駅や相良駅側線で確認することができたが、DB603だけは出会えなかった。


詳細はこちらにあります。

DB604    '1963.4.4


DB608 袋井駅 

袋井駅構内のDB609。 向こうにDB607が見える。  1967.7.9

2010年6月24日木曜日

蒙古の戦車が牽く列車

静岡鉄道駿遠線。
始めて訪問した1963年4月は、駿遠線の情報などは無くどんな軽便か行ってみないと分からない状況であった。袋井駅に、蒙古の戦車の愛称があるDB(蒸機足回り流用した自社改造機)が牽く列車が次々とやって来たのには驚いた。それと車両の台数・バリエーションが多く(軽便数社分以上?)、営業キロ数からも云っても堂々たる大軽便であった。



東海道線袋井駅の脇にはDB604、DB608が牽く2編成が発車を待っていた。1963.4.4



袋井駅構内のDB609

2010年6月21日月曜日

雄勝線 西馬音内電車区(続)

西馬音内電車区で見た古典客車の次は、魅力的な電車です。

梺へ向けて発車して行くデハ6  西馬音内  1964.8.6 ポップアップ

構内入替作業中のデハ3とデハ1

元都電の車体を使った デハ5


元日立電鉄の電車でトレーラ化された ホハフ5


西陽を浴びた西馬音内駅には、古典車がゴロゴロと。二軸客車の車内はお客で埋まっている。あと10日もすれば幻想的な西馬音内盆踊りが始まるが、この西馬音内電車区もまた幻想的な世界であった。

2010年6月18日金曜日

田園鉄道(続) 宮城中央交通若柳駅

東北本線石越駅から二つ目の若柳に車庫があった。1966.3.1

お目当ては凸型電機ED20形で、丁度2両が休んでいた。軽便鉄道時代の小さな車体はそのままに、足回りを762→1067mm軌間に拡大改造した姿が模型のようで愉快であった。
車体幅より台車の方が幅広い。

3年前の2007年3月末に廃線となった「くりはら田園鉄道」は保存活用に向けての整備が着々と進み、若柳駅の施設が復元されたのには目を見張ります。
先日6月13日には栗原市が主催して一般公開「くりでん乗車会」が開催されたそうで、この車庫があった若柳駅は地元の皆さんや鉄道ファンに永く愛され続けて行くことでしょう。



2010年6月17日木曜日

田園鉄道

宮城中央交通(栗原電鉄)、その後の「くりはら田園鉄道」
東北本線石越駅から細倉まで走っていた。
1955年に1067mmゲージに改軌された元ナローゲージ鉄道。
訪問した1966年、元ナローから改軌された凸型電機ED20形が大きなパンタを振り上げて活躍していた。
「くりはら田園鉄道」名の通り、まさに一面田園地帯を行く鉄道であった。
1966.3.1

2010年6月16日水曜日

栄枯盛衰 松尾鉱山(続)

昭和41年の訪問後、5年程で幕を閉じた松尾鉱山と鉄道の悲しい歴史から、もう少しアップしてみました。


東八幡平駅の構内から雄大な岩手山を見る。1966.03.02

東八幡平駅の構内風景。 

沿線に人家は少なく雄大な開拓地のようであった。 

まるで開拓地のような風景の中を、客車1両牽いた列車が勾配をゆっくりと登って行く。 

東八幡平駅の構内作業をしている凸形電機ED251。