昨夜、古い写真が入手できたので早速アップして見ました。
九十九里と同様にその最後を見に行くかどうかさんざん迷い、結局行けなかった軽便の一つが草軽電鉄でした。手の出ない遠い昔の軽便とは違い最後の草軽は手の届くところにあったのに・・・。
写真は昭和33年、国鉄軽井沢駅前にある新軽井沢から草津温泉まで営業していた時代である。
この時代は国鉄駅前の新軽井沢には何もなく、1駅先の旧軽井沢に後に軽井沢銀座と呼ばれる中心部があり、この間をモハ100形が区間運転していたそうである。
5両いたモハ100も、この時既に3両が栃尾電鉄に移籍していた。
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区間運転のモハ100形 新軽井沢-旧軽井沢 1958(S33)年 |
新軽井沢駅構内のデキ 1958(S33)年
二度上 嬬恋のスイッチバック 1958(S33)年
駅員さんの長靴と学帽風が時代を感じさせてくれる.
栃尾線モハ208(元草軽電鉄モハ103) 上見附 1964.3.22
学校の隅に保存されていたデキ. 中軽井沢 1966.8.19
廃線後の新軽井沢駅 1963.7.21
草軽電鉄の新軽井沢駅がそのままバスターミナルに.1960年4月廃線の3年後で
「電車・バスのりば」の看板が「草軽バスのりば」へ書きかえられていた.
駅はバスの施設となり草軽の貨車の車体が残されていた.
4 件のコメント:
草軽。うーん。微妙な記憶があったりするんだよなあ・・・。
ガキんちょのころ、たぶんまだ幼稚園にすら行く前くらいの年代の話。
親父がつとめていた会社はなんか妙にハイカラな風習があり(ハイカラてのも死語だな)、社員旅行でスキーに行ってたりしたんですが、それに連れて行かれた。行く先は草津。まあ大半の社員はスキーなんかせずに温泉にはいってマージャンやってたみたいなんですが(あ。今の今までスキー旅行だとばっかし思っていたが、あれは単なる温泉ツアーだったのかも)。
そのバスの中で、草津につく直前、親父の部下だった金子さんという方が、ふと「ここに踏切があって小さな電車が走っていたのだが、なくなってしまったんだなあ(大意)」とか言ってた。
そんときは何のことやらわけわかんなかったんですが、だいぶ経ってからそれを思い出し、調べてみたところ、同区間(草津口)の廃止は1962年ですから、金子さんのつぶやきとの最大誤差はせいぜい数年で10年はないことが判明、ああなんとあれは草軽のことだったんだあ、と、腑に落ちたのでした。
しっかしなあ。その社員旅行についていった話なんて実に断片的な記憶しかないというのに、なぜにしてそのつぶやきだけ、きっちり覚えていたのでありましょうか。「あれって、草軽のことじゃん」と腑に落ちたとき、なんかくらっと眩暈のようなものを感じたように覚えております。
nekosukiさん
幼稚園前の幼少時代に社員の「つぶやき」だけが記憶され、それがなんと草軽電車とは 面白い話ですね。
幼少時代に既に田舎電車への関心が芽生えていたのでしょう。
三つ子の魂はちょっとした記憶が生涯残り
私もその年頃に刷り込まれた断片的な記憶として上野の山のお猿の電車があります。狭軌好きになったのはこの影響かも知れません。
草軽電鉄というとジェフリー製の機関車がすぐに頭に浮かんで来ますが、平地区間を走っていた電車もなかなか魅力的でしたね。
などと言いつつ、全線廃止年のころ私は5歳ですので、行けてはいないんですが。
軽井沢あたりに別荘でも持てる身分なら、乗る機会もあったかも知れません。
15年位前に、廃線跡を自転車乗りの仲間達と全線辿った事があります。
二度上駅跡にも行ってみましたが、深い森の草薮の奥に駅舎と思われるバラックがかろうじて立っていました。
きっと今はもう倒壊してしまっているでしょうね。
kumaさん
草軽探偵団改めて読ませてもらいました。のべ5日間もかけて探索した長大な路線。いかに草軽が偉大な鉄道であったか思い知らされます。
草軽は高原鉄道のイメージではなく山岳鉄道なんですね。よくジェフリーがこの長大な路線を列車を牽いて登ったものです。あのか弱い電車じゃとても無理なようで、改めてジェフリーの偉大さに尊敬してしまいます。
今も残る沿線の素晴らしい光景を楽しめるよう、もし廃線跡が整備されたなら素晴らしいコースになるでしょうね。
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