この時代はマイカー普及もまだこれからで、新小松へ向かう朝の通勤・通学列車はDC122が客車を5両も牽いていた。鉱山の貨物輸送はとっくの昔にトラックに切り替わっていて、旅客輸送だけでこの後13年もよく生き延びたものだ。
朝の通勤・通学時間帯が終わり、のんびりと朝の陽を浴びた尾小屋構内をオリンパスペンSで記録した。長原の俯瞰写真を撮ったのがこの時で、この日の訪問記を紐解いてみると。
以前、ブログで朝一番に乗って新小松を出発した時のことを掲載したことがあるが、長原の俯瞰写真を撮ってからは終点尾小屋まで歩き、ポケットに突っ込んだ朝食の乾パンもそろそろ飽きてきた。
尾小屋の構内は以前来た時のままで客車が奥にポツンと一両置いてあり相変わらずシーンと静まり返っていた。やがてやって来たのがキハ2の単行であった。
キハ2も派手な朱色カラーに塗り替えられて、以前見た渋い濃淡ブルーがよく似合っていた頃のイメージが一変してしまった。
キハ2も派手な朱色カラーに塗り替えられて、以前見た渋い濃淡ブルーがよく似合っていた頃のイメージが一変してしまった。
撮影:1964.12.30
暗く寒い山間を抜けて尾小屋に到着すると、朝の陽を浴びてパッと開けた構内があった。
増結用の客車が休む下に清流が流れる。
1970年秋の5号蒸機運転会では活躍していた給水タンク
6 件のコメント:
私は最後の2年間、足しげく通いました。
その13年前の写真、感動ものですw
尾小屋駅構内もキハ2も
ほとんど変わっていないように思います。
留置の客車が一番奥のターンテーブルあたりに
押し込まれているのが面白いですね。
にぶろくさん
尾小屋の最後の頃は国鉄蒸機が終焉を迎えた頃ですね。
最後の非電化軽便と言われた尾小屋鉄道に多くのファンが押し寄せたのには驚きました。
私は最後の頃を全く知りませんが、1976年4月に出張の合間に撮った新小松が最後でした。
今回の写真で奥にいた木造客車は姿を変えて最後までいましたね。
ご無沙汰しております。
昨年夏、帰省した折、金沢駅前のビルにある宝石店で、石川県立尾小屋鉱山資料館における「明治150年記念企画 此処ニ生キル--尾小屋鉱山盛衰記--」(2018.7.1~11.13)のチラシを見つけました。
店の主人に聞くと、鉄道ファンだそうで、尾小屋鉄道が廃線になった時の、線路をカットした「尾小屋鉄道レール文鎮」を見せてくれました。当時、いくつかは販売されていたそうで、小松児童会館でも売っていたようです。
廃線時、東大の鉄道研究会(?)の人たちも、線路の一部を譲ってもらって持ち帰ったとか・・・
また鉱山へは起伏も多く、上り坂ではレール上に滑り止めの砂を利用したそうですが、その砂が受験用のお守り(滑り止め)として販売され人気だったとも聞きました。
黒ユリさん
お久しぶりです。
浅野川線では興味深い内灘の話題をありがとうございました。
金沢駅前で尾小屋鉱山の展示があったとは過去の繁栄の歴史が地元で人気高そうですね。
尾小屋鉄道のカットレールはどこで手に入れたのか私も持っています。
尾小屋の先にあった鉱山トロッコの一部が今保存されているようですが興味深いです。
当時、鉱山トロッコのことは全く知りませんでした。
1962年に初めて訪問した時は新小松駅の奥に鉱山事務所と積込施設がありましたが
既に精錬後の製品をトラックで輸送していた時代だったようです。
そうでしたか、カットレールをお持ちだったとは驚きました。
店の主人に聞いたら、これは売り物ではなく、自分の宝物だと言っていました(笑)。
鉄道がお好きな方には、貴重な品物でしょうね。
「尾小屋鉱山盛衰記」の展示会は、小松市の石川県立尾小屋鉱山資料館で行われたもので、店の主人は小松市出身だったので、そのチラシも置いていたようです。
明治時代、近代化に勤しんだ時代、確か銅が取れたとか。炭鉱もそうですが、昔の人の努力や苦労がしのばれます。
それにしても、アップされた写真の数々は本当に貴重だな、と思いました。ファンが多いのも頷けます。
列車もそうですが、昔の戦闘機や戦車、艦船にしても、金属の塊りなのに、なんとなく哀愁を帯びて見えるのが不思議ですね。
黒ユリさん
失礼しました、金沢駅前はチラシが置いてあったところで、展示会は尾小屋鉱山資料館で開催でしたね。
鉄道で金属の塊といえば蒸気機関車ですが、尾小屋のような小さな蒸気機機関車が
車庫の奥に鎮座しているのを見ると何となく仏像のように見えてしまうことがあります。
昔の金属の塊にあった機能美(理にかなった造形)が今哀愁を帯びて見えるのではないでしょうか。
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