案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年11月17日火曜日

57年前の京王線 沿線風景

57年前の京王線の下り電車、私はこの写真は背後の風景から仙川駅を出てつつじヶ丘駅に向かって坂を下っているところと思い込んでいました。ところがこの区間にある入間川がこのような小川ではないとのご指摘があり、この近くに在住の大学鉄研OB氏に鑑定を依頼した結果、写真はつつじが丘駅の東側ではなく西側であることが判明しました。

1960年代の航空写真、当時の京王線築堤の高さ、背後に見える駅などから仙川~つつじヶ丘間ではなくつつじヶ丘駅西側のつつじヶ丘~柴崎間で撮影したものでした。
モノクロ写真のカラー化、現在のカラー写真は大学鉄研OB氏より送って戴いたものです。

一面田んぼだった風景はその後埋め立てられ住宅地となり、その住宅もいつの間にか今風の住宅に変わって来て、京王線に限らずどこでも沿線風景は大きく変化し今昔対比が難しくなってきています。今住んでいる人たちにとってかっての田園風景などは遠い昔の事として忘れ去られてしまうのでしょう。


つつじヶ丘を出た下り電車、遠くに国分寺崖線の台地が見える。 1963.7.31
モノクロ→カラー化はやはり臨場感が出てきます。

現在のつつじヶ丘~柴崎。上の写真の撮影位置はほぼこの辺りと思われる。

つつじヶ丘駅の部分拡大で駅を出たところに下り勾配がある。

柴崎~つつじヶ丘間で撮った田園風景。1963.7.31

⇧つつじヶ丘~仙川
1960年代の航空写真(地理院地図) 柴崎~つつじヶ丘間。

モノクロ→カラー化.1963年のつつじヶ丘はまるでジオラマのよう。

6 件のコメント:

モハメイドペーパー さんのコメント...

 撮影年月日からすると昇圧の直前、小型車の最後が秒読み状態になった頃ですね。この10年後から2年ほど、仙川~つつじヶ丘間の築堤下あたりに住んでいました。柴崎に下る線路沿いは家と農地が半々くらいでした。

katsu さんのコメント...

モハメイドペーパーさん
昇圧化は1963年8月4日であったのでまさに昇圧化直前の撮影でした。
この頃は浅間線やアプト式など各地の廃止を追いまわす忙しい年でした。
10年後からこちらに2年ほどお住まいでしたか。
だとすると写真は仙川~つつじヶ丘ではない事はすぐ分かりますね。

伊豆之国 さんのコメント...

つつじヶ丘駅には、今から半世紀近くも昔、この写真の時期より少し後の頃、駅の南側の「神代団地」に住んでいた親類宅を訪れた時に何度か乗り降りしたことがありました。その頃はまだ甲州街道側の北口しかなく、駅のすぐ西側の踏切を渡ると、武蔵野の面影を残す森が残っていたことを覚えています。
京王線は、仙川~つつじヶ丘~柴崎間で、「滝坂」という武蔵野台地から多摩川沿いの低地に降りて行く下り坂に沿っていて、地上時代だった小田急の成城学園前~狛江辺りと同様、高台から川沿いの低地に降りて行く景色の変化を見ることができたのですが、今では宅地化が進んでその面影もだいぶ薄れて行ったのでした。
つつじヶ丘駅には、つい先日、社用で降りた(行き先は北側にバスで行ったところ)のですが、駅は橋上駅になって駅ビルもでき、駅前には高層マンションも林立して、半世紀前の面影はほとんど見出すことができなくなっていたのでしたが、柴崎側の下り線に沿った、高架になっている引き上げ線や、駅西側の踏切の南側にわずかに残っている森(地図で見ると神社とお寺のようです)にかろうじて面影を残すのみでした。神代団地への道も、今ではすっかり変わってしまったらしく、どこをどう通ったのか全く分からなくなっていました。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
小田急の成城から喜多見へ下る坂も今では全く昔の面影がありません。
喜多見と同じよう仙川からつつじヶ丘にかけて下っていたのを先日まで知りませんでした。
昔のつつじヶ丘風景を時代考証に拘ったアニメの背景職人の手で再現するときっと感動することでしょう。そんなアニメで再現された風景が目に浮かびます。

Cedar さんのコメント...

このころ中形車と呼ばれていた、2150~2400が好きでした。お写真の5連を中学生の分際で模型化しようとトライして3両で挫折しました~普通の鉄ガキには2000以降のカルダン車が人気だったのに、軌道線臭いのが好きだった天邪鬼でした。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
が中型車の中で最も好んだのは戦災被災車2200形2300形ではないでしょうか。
この車両を組込んだ5両編成を模型化したら堪らないでしょう。