石鉄さんからのコメントより
私の子供のころ(昭和30年代)金沢市民の海水浴といえば、粟崎海岸と金石海岸でした。粟崎海岸へは浅野川線(通称浅電)、金石海岸へは金石線を利用しました。
当時浅電は夏場だけ内灘から海岸駅まで営業していました。
旧伊那電のダブルルーフのモハ851と852、3101、3102(851と852は木造車)が活躍していました。
北鉄生え抜きの電車と比べても大きく、ゆっさゆっさと巨体を揺らしながら内灘砂丘の砂に埋もれたような線路を走っていました。
どの電車も混んでおり、帰りの車内は汗や塩水でネチャネチャになった体をくっつけ合って帰ってきました。
撮影:1964(昭和39)年12月31日
傷んでいる感じはなく綺麗なモハ3101。 北鉄金沢
モハ3102
北陸本線(後方)をアンダークロスして一つ目の七ッ屋に到着する。モハ3102+クハ1651のいかにも北鉄らしいゲテモノ編成。
モハ3102 七ツ屋
11 件のコメント:
元伊那電のモハ3100は、まだ旧塗装のクリームと茶色の頃だと思います。お馴染みの北鉄カラーとはまた別の懐かしさを感じます。
元気動車1651とのペアは、いかにも昔の北鉄らしいゲテモノ編成ですね。
画像4枚目、これです。左に延びる、粟ヶ崎海岸方面行の、臨時の?ホームと、実質「支線」みたいな扱い?の、分岐した線路が粟ヶ崎海岸へ向かっていたのですね。
という事は、北鉄金沢から内灘止まりの電車は右手の画像右手の通常のホームに、粟ヶ崎海岸直通の電車は左のホームに入っていたのでしょうか?
海水浴客を溢れるほどに乗せて、ユラユラと揺れながら重々しく走っていた時代が、浅野川線の華々しかった頃を偲ばせてくれますね。
esehokuさん
元伊那電のカラーリングがノートに記録もなくて思い出せません。
あの時代は旧塗装の茶色とクリームでしたか。
S37年の小松線にはそのような旧塗装がいました。
粟ヶ崎海岸行きの電車はきっと左に延びる線路にあった丸太材ホームに停車したのでしょう。
通常のホームよりもその方が効率的です。
二軸電車が走っていた時代はずっと昔だったのでしょう。
こりや痺れる編成ですね。
気動車改造クハの方は、父が北鉄金沢で撮影しています。
このモハ3101、3102は国鉄時代に片側の運転台が撤去され、残った側は前面非貫通化、スペースを拡大するために運転席の背面仕切りがドラム缶を縦に半分に切ったような形になり、乗降口と戸袋窓も内側へ移設されていました。
浅野川線へ入線した当初はポール化、切り上げられた乗降口ステップを復元し、片運のまま背中合わせにした←金沢3101+3102内灘→の固定編成でしたが、その後はモーターを4個から2個に減らしたり、両運に戻したり方向転換したり、パンタグラフ化の際には搭載位置が違ったり(3101は内灘側なのに3102は金沢側)さらには台車をKS30LからDT-10(またはTR-10)に履き換え、最後は石川線へ異動して電装解除、片運化して生涯を終えるという目まぐるしさでした。
このあたりにも北鉄らしさが感じられます。
当時、海岸駅の営業開始日が近くなると、内灘から海岸駅までのレール磨きのアルバイトが募集されていました。
高校生だった兄の友達からの又聞きによるとレール磨きのほかに、砂に埋もれた線路の掘り出し、仮設駅舎やホームの補修の下働きなどをしたそうです。
また、父の話によると戦争末期から終戦後にかけて海岸駅から90度右カーブの線路を敷き海水を汲み市内線の公園下車庫まで運んでいたそうです。海水を入れるタンクを積んでいたということですが詳細は聞き漏らしました。
今考えてみると、海岸駅の終点は浜から見ると高台にありその地点から90度右カーブは無理ではないかと思います。
海岸駅の手前から分岐したのではないでしょうか。
昭和30年代はじめまでは、浅野川線北鉄金沢駅と市内線とを結ぶ連絡線が金沢駅前広場にありました。
Cedarさん
気動車改造クハと元伊那電モハの組合せは変化があって面白いですね。
写真とは別のもう一台の気動車改造クハ1652は幌付き貫通路でモハ3551と組んでいました。
代打・山本さん
詳細な遍歴をありがとうございました。
この元伊那電はいかにも北陸鉄道らしい目まぐるしい遍歴ですね。
石川線移動後のクハ1151を1968年に能美線新新井駅で撮ってありました。
これが浅野川線で活躍した元伊那電の最後の時だったんですね。
石鉄さん
内灘にまつわるお話しをいろいろとありがとうございました。
粟ヶ崎海岸駅から更に海岸を90度右カーブしている軌跡が航空写真か何かにありました。
この線路の目的は海水を汲むためでしたか。
浅野川線の線路が市内線と結ばれて公園下車庫まで運ばれていたとは益々興味深々です。
以前から北陸鉄道を調べるときに石鉄さんのホームページを拝見していました。
粟ヶ崎海岸駅の写真は凄いですね。
石鉄様のお父様のお話にある90°右カーブの線路は、合併前の浅野川電気鉄道の手で1929年に開業した初代の粟崎海岸駅への線路で、北陸鉄道に合併される約半年前の1945年2月に不要不急路線として粟崎遊園前(今の内灘駅)から先の廃止手続きが取られていましたが、設備はそのまま残っていたものです。
海岸駅が高台の上に移ったのは終戦後に営業を再開した後でした。
乗り入れていたのは市内線の撒水車で、合併して北鉄の路線となった後に金沢駅前に連絡線を新設しています。
代打・山本さん
90°右カーブの先は初代粟崎海岸の駅でしたか。
何かの地図?でみた軌道跡は海水浴場の砂浜に向かっている感じでした。
それが高台へ移動してその後の粟崎海岸駅になった。
なるほど、これでやっと曖昧であった海辺の終着駅の歴史が分かりました。
ありがとうございます。
国土地理院HPの空中写真による線路付け替えの前後の比較です。
1946年
砂に埋もれかかっていますが、波打ち際の初代の海岸駅へ向かって弧を描いています。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1190122&isDetail=true
1967年
高台へ移設後で、先端の機回し線部分が築堤状になって砂浜へ突き出ています。
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=254633&isDetail=true
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