春の陽を浴びた奥山線を整理してまたやってみたくなりました。
撮影:1963.4.4
元城駅
モハ1002 + ホハ1106 元城
遠鉄浜松から二つ目の元城駅と車庫の全景 元城車庫全景。今はここがホテルですか。
奥山線の顔
遠鉄浜松駅
隣りの遠鉄西鹿島線と並行する遠鉄奥山線。架線高さは西鹿島線と同じで、小さな車体の屋根に、目いっぱい上げたパンタが大きいこと。
素敵な丸妻客車 遠鉄浜松駅
遠鉄浜松を発車するとカーブして川沿いを走る。
遠鉄浜松 - 北田町 時を経て一段と魅力的になってきた凄い家並み。
川沿いにあった一つ目の駅、北田町
元城に向かう沿線の住宅の造りが如何にも昭和30年代を表している。
いかに会社がバス事業にシフトしていたか、ボロ車庫とは対照的な立派な遠鉄元城寮(バスガイド社員寮)が左手に見える。
車庫に休む電車と気動車。
元城工場の内部とDC1901
近くを走る遠鉄二俣線(現西鹿島線)の赤い電車。
9 件のコメント:
えー!先週末浜松に行き、貴兄の記事を参考に遠鉄浜松〜元城間を歩いたばかりです。
拙ブログの最新記事にしてます。
ナローの知識は皆無に近かった私ですが、福島模型製作所でKathuさんと出会ったのがきっかけで、この翌年の3月、奥山線を訪れました。曳馬野の動力車交代が印象に残っています。
Cedarさんのfacbookで浜松紀行を見てましたが、貴ブログの記事も拝見しました。
あの元城工場があんな巨大なホテルになっているとは!
当時、遠州鉄道は社内報など見てもしっかりした経営のバス会社に感じたものです。
私のブログのもう8年前の記事「春の陽を浴びて」の元城工場を見ていたら、
未公開画像を入れてまた奥山線をやりたくなってきました。
モハメイドペーパーさん
昭和39年の3月21日(土曜) この日はご一緒だったアルバイト先の福島模型に出勤してから
上野発夜行列車の予定が、この日もまた欠勤してしまい上野から夜行で長岡へ向かったのでした。
越後交通栃尾線から二回目の奥山線と駿遠線の軽便めぐりしたのがこの昭和39年春でした。
奥山線は前年4月訪問時と同様に春の陽が心地よかったのは
気候温暖な浜松のせいだったんでしょう。
今でも住みやすい地方都市だと思います。
こんにちは。
遠州鉄道は奥山線は常に赤字基調だったと述べていますが、もともと別会社路線を合併したもの。
西鹿島線は少ない自己資金から苦労してお金を捻出して改軌したのに対し、奥山線は狭軌のまま。
電化と多少の近代化でお客さんを増やすことはできたようですが、接続駅も西鹿島線の途中駅だったから、積み替えの手間もあって貨物も集めきれなかったのだと思います。
静岡鉄道駿遠線と同じように1067ミリに改軌で来たら状況は変わったかもしれませんが、廃線跡をたどるととにかく線路敷が狭いですね。改軌のために新たな土地購入までするならバス転換が無難と言う判断だったのでしょう。
こちらの人の回顧録によると「奥山線はお客さんが多いと勾配で立ち往生したと言われるけど、自分が利用している限りそのようなことは一度も無かった」という記述を割と見かけます。
今の奥山線沿線は宅地化されていて、朝夕のラッシュも結構なものです。ファンとしては残っていてくれたら良かったのにと思うこともあります。
U-BOATさん
確かに改軌して西鹿島線のようになって電車通勤・通学ができていたらと思います。
奥山線が廃線になってから曳馬野から金指にかけて大変な宅地化で一変してしまいましたが、
それだけ長閑だった沿線の自然が全滅してしまった感があります。
改軌して発展した新奥山線沿いに街づくりがされていげは少しは違っていたかもしれません。
最後の画像、西鹿島線の「赤い電車」の近代的なデザインと、その前の画像とのギャップがすごいですね。
車両から風景まで、新旧・種々雑多な物が混在していた時代を感じます。
奥山線は全くの未体験ゾーンですが、なんか変な感じ(※ホメ言葉のつもりです)のする路線でしたね。
曳馬野を境に、ナローの電車と気動車が併存していて…
※ホメ言葉って書きましたが、つまりは土地の人の足として、できる限りの事をしていたのではないかという思いがするからです。
細かな事情は知りませんが、一部電化も「できる限り」の一つだったはず(違っていたらすみませんが)。
あの時代、そんな精一杯さが地方私鉄にはありましたよね。
乗り心地から何から、今とは比べものにならないくらい酷かったとは思いますが、土地の人々を幸せにしてくれる力は、便利さに慣れきってしまった現在よりもずっと大きかったのではないでしょうか。
先のコメント、名前を入れ忘れました。
esehokuです。
写真展でも、ブログのコメントでも、とても暖かいお言葉をいただき、ありがとうございます。
esehokuさん
奥山線に土地の人々を幸せにしてくれる力は現在より大きかったのでは、
はその通りと思います。
あの頃は日本がまだ貧しい時代ゆえの幸せ感が溢れていたと思います。
こんな軽便でも当時のバスよりはずっと便利だったのではないでしょうか。
最終日には大切な軽便が消えてしまう沿線住民の名残り惜しい別れが印象に残ります。
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