西公園停車場。1964.08.02
以前から気になっていたこの一角、部分拡大して見るとゲタを履いた学生が木のベンチで寝ているようです。その脇の隅には掃除道具が積んである。ガラス越しに見える待合室はこんな軌道線にしては広そうだ。
駅には赤ん坊を背負って乳母車を持った母親が。そして電車に乗るための踏み台が2ヶ。 待合室入口に置いてあるのは椅子2脚か。
その先の建屋にある看板が読み取れます。軌道は砂利というよりほとんどドロ軌道、ここから専用軌道に入り軒をかすめて西花巻へ向かう。
以下は35mmフィルムで撮影
8 件のコメント:
西公園界隈は素晴らしい場所ですね。Cedar親子が訪ねた昭和42年には、交換設備は撤去されていましたが、味のある街並みはそのままでした。
Cedarさん
広角気味45mmレンズの世界から狭い一部の光景クローズアップへ。
Cedarさん流に切取り画像をやってみました。
この西公園界隈はすでにブログで何回も取り上げてお恥ずかしいですが、
幾らでも切り口が湧いてくるようです。
究極はこの風景を模型で再現することなんでしょうけど。
私も昭和40年に乗っていますが、昼間のせいかガラガラでした。ここに限らず、この時代の田舎の家並みは大体こんな感じでした。
モハメイドペイパーさん
昭和40年に乗っておられるとは私と同じ良き時代に訪問しているのですね。
私がこの家並みに気付いたのはこの時代から40年も後でした。
なんとも思わなかった街並みが40年も経つとがらっと感じ方が変化しました。
昼はガラガラでしたか、昭和41年の朝の通勤時間は大変混んでいてトレーラを2両牽いていました。
この時代の乗客は朝夕に集中していたのでしょうか。
こんにちは。
平成13年頃花巻で仕事をした時期があります。
松倉温泉と大沢温泉の間ぐらいのところに職場があったので、写真の場所はよく車で通りました。
当時でも若い人たちは花巻電鉄の事は知りませんでした。鉄道に全く興味のない職場の同僚に花巻電鉄の話をしました。鉛温泉の名前の由来の事も。
後日散髪に行った時に、私から聞いた話をその理容店の若い女性にしてあげたらみんな話に乗って来て人気者になれたよと感謝されました。
付近は鉛温泉に向かって道の両側にリンゴ畑の広がるところもあります。きっと綺麗だったでしょうね。
花巻市内にも花巻電鉄のタクシー部門が分離して残った「電鉄タクシー」が今もあるようです。当時は看板は古いままで、非常に雰囲気が良かったです。写真に撮っておけば良かったと思います。
U-BOATさん
そうでしたか、
宮沢賢治や高村光太郎と縁がある花巻電鉄なのに、今や若い人たちはあまり知られていないようでしたか。
今は当時の風景とは全く別の風景になっているでしょうから当然かもしれませんね。
私たちが明治時代の路線を知らないと同じように、
次第に花巻電鉄も遠い過去帳になってしまうのでしょう。
初めまして。1960年花巻生まれの楓ちゃんと申します。
実家はの西公園駅から東寄りの東北本線ガード際で、石神には親戚・中根子には菩提寺があり
幼き頃は夏の大沢温泉や志戸平温泉有楽園(遊園地)、冬の鉛温泉スキー場等々に西花巻駅や西公園からよく花巻電鉄を利用していましたので
前からこちらにある当時の映像に我が原風景を見る想いで感激しつつ拝見しておりました。
昨年末にようやく上巻のみですが書籍の方も購入させていただき、いつもタイムスリップするような気分でそちらの方もありがたく拝見中です。
で、新年にあたり可能であればぜひ拙ブログ「楓村通信」にリンクを貼らせていただきたくコメントさせていただきました。
今後も楽しみにして行きたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
楓ちゃんさん
まずは写真集の購入いただき厚く御礼申し上げます。
あの時代を知っている花巻生まれでしたか。
西公園の先をカーブするところで遊んでいた幼児たちの年ごろと丁度同じくらいですね。
子供の頃に花巻電鉄軌道線にまつわる生活があったことはとても貴重な体験だと思います。
花巻電鉄軌道線の写真にはその時代の物語が沢山出てきそうです。
志度平温泉駅脇の小さな遊園地の家族連れなどでは勝手な想像をしてみました。
「楓村通信」拝見しました。
写真が綺麗ですね。そしで各地に出向く行動力に驚きました。
どうぞ貴ブログにリンク貼ってください。
今後とも宜しくお願い致します。
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