旧東海道の未舗装路の脇を木造ポール電車が三島と沼津の間を走っていた。この軌道線がまもなく消えるのを知り、正確な廃線日も知らずに訪問したのが1963年2月22日、廃止して18日が経っていた。旧東海道を行くこの素晴らしい軌道線の光景を僅かの差で逃してしまい悔しい思いをした。三島広小路の駅は何もかもがそのまま残っていて今にもポール電車がやってきそうな雰囲気があった。
その先には外されたレール、道路の凸凹など軌道の形跡残す旧東海道が沼津方面へと続いていた。幸い車両の殆どは鉄道線大場工場に集結し解体前であり、軌道跡からポール電車が走っていた光景を想像することができた。素晴らしき伊豆箱根鉄道軌道線。
1963(昭和38)年2月4日が最終日であった。
廃線直後の道路に外されたレールと軌道跡の凸凹が残る. 1963.2.22
三島広小路を出ると右にカーブし旧東海道に入る.左は鉄道線への連絡線
廃線直後の三島広小路の商店街.軌道跡は舗装路に.
線路がはずされた旧東海道.
国立病院前の一つ手前 長沢にあった車庫.
廃線直後の三島広小路の商店街.軌道跡は舗装路に.
線路がはずされた旧東海道.
国立病院前の一つ手前 長沢にあった車庫.
14 件のコメント:
またまた涙モノのお写真ですね!消えてしまった直後の光景も立派な鉄道写真になるのですね。・・・・感服いたしました。
小生、沼津の幼少のときに疎開しており、小学製のときにはこの地で夏を過ごしていました。家内も沼津でしたのでよく沼津へ出かけたのですが、電車どころではなかったようで島津せんはよくおぼえており、なんで撮影しなかったんだろうと地団駄を踏んでおります。そこで、見覚えのある風景、久しぶりに懐かしく感じています。沼津の電車の位置や形状は建て替えられたとはいえ昔の面影を残しています。
街並みの写真もいいですね。
オート三輪がなんともしぶい。
Cedarさん
どこにでもあった当たり前の風景。
鉄道が無くても昭和をもっと撮っておくべきでした。当たり前過ぎて気がつかなかったのが惜しかったです。
鹿ヶ谷さん
このオート三輪ミゼットは1960年代初期頃までの風景をよく表す名車ですね。
バスやオート三輪は全く撮ってなく、いつも脇役に写っているのを発掘するのみです。
今では想像もできないことですけど、昔は「ある路線が、走っているのか、廃止になってしまったのか」を調べるのすら、たいへんだったんですよねえ(と遠い目をする)。
行きたいなあと思っても、しかし遠いところだと行って廃止になってましたではシャレにならない。空振り覚悟で行けるほどの余裕はありませんでしたし。まあ計画を立てる前に電話をかけて様子を聞けばいいようなものでしたけれども、でもまだガキんちょだったもんで「廃止になっていませんか」なんてどうやって聞けばいいのかわからなくて聞けなかったりしました。結局行きそびれたところはというと・・・今なら簡単にわかる廃止年月日を見るといくらもなかったような気がしますけれども(=^_^;=)。
そういえば、バイクに乗り始めてから。
とあるローカル線の近所にツーリングにいったんですよ。道を尋ねたタクシー屋さんが「○○鉄道は見ていきな」と教えてくれたんで、いちおう沿線を走って風景を眺めてきました。そしたら翌年に廃止になっちまいやがりまして。まさか廃止になるだなんて思ってもいなかったので、もっとよく見て写真とかも撮ってくるんだったとずいぶん後悔しました。「タクシーのしとも *廃止になるから* 見ていきなってなぜひとこと添えてくれなかったんだ」とか恨んだりして(それかんっぺきに逆恨みだから>おれ)。
なんかこのページの「正確な廃線日も知らずに訪問した時は」っていうところに、なんかとんでもない今昔感と同時に、そんな時代もあったよね♪、みたいに蘇ってくるものがあったりして、思わずコメントを書いてしまったという昔話でございます。
青蛙さん
旧東海道を行くこの軌道線は廃線後でも情緒がありました。個性豊かな電車が良かったせいでしょうか。沼津は青蛙さんの縁が深い土地でしたね。てっきり撮っているものと思っていました。
猫好きさん
何回もコメント入らずでスミマセンでした。
廃線情報、昔と今ではとんでもない違いですね。当時は鉄ピクか人づてにしか情報はなく、正確なところが判らない事がありました。何でも判る今では考えられないこと。
そんな時代は、どんな車両が居るのか判らないまま訪問する事もあり、その分新鮮さがありました。それだけ未知の世界があちこちにあった時代でした。
親父の田舎が西伊豆なので、「準・ご当地」と言った場所ではあったのですが、私が物心ついた頃には既に消えた後で、観光ガイドブックや地図にも載っていなかったので、「三島と沼津を結ぶ路面電車があった」と言うのを知ったのは、あるとき少し古い観光地図を見たことがあって、そこに三島と沼津を結ぶ「謎の路線」が描かれており、後になってそれが「伊豆箱根鉄道軌道線」という路線があったということ、廃止の前年に台風によって橋が流されて沼津側が運休となり、結局復旧できず残りの部分もそのまま廃線となったと言うこともわかったのでした。
昭和46年頃、祖母の見舞いで沼津の病院に行ったことがあり、その帰りにかつての軌道線のルートを通っているバスに乗って、三嶋大社にお参りしていますが、沿道の風景は全く記憶が抜け落ちています…。軌道線は、台風の被害がなかったとしても、やはり大動脈の東海道、いずれ道路の舗装と拡幅で早い時期に消えていたのは必至だったのでしょうか。
伊豆乃国さん
この軌道線は大変に古い木造電車ばかりで、よくぞ昭和38年まで持ちこたえたと思います。
台風による黄瀬川にかかる木橋の流出がもしなかったとして消える運命にあったでしょう。
砂利道路の片隅を行く軌道線の現役時代は見ることが叶いませんでしたが、その後、花巻や福島で似たような雰囲気を見ることができ何とか慰められました。三島軌道線はどこを撮っても絵になる路線だったと思います。
昭和49年の秋でも大場車庫に205の廃車体が倉庫として残っていました。ポールのフックもそのままでしたが、当時は台車の無い廃車体に価値を見出せず写真を撮らなかったのが今となっては残念です。
ありそうでなかった、廃線直後の写真ですが、何か不思議な感覚がします。
ほんの少し前まで、確かに鉄道の息遣いがあった事を感じさせますね。
またこのヒトは…と苦笑されそうですが、大好きだった北鉄加南線の廃線直後もこうだったのかな…まだレールの残る河南の駅に立ってみたかったと思いました。
ちなみた、昭和48年時点では、山代の街中はまだレールを剥がされた地面が残っていて、ああ、確かにここを電車が走っていたんだな…と名残りを覚えたものでした。
直接関係の薄い長文ですみません。
伊豆箱根軌道線、ここもやはり、地方私鉄の良い時代が一つ消えたのですね。
なとさん
205は昭和38年廃線時に既に物置に使われていましたが、同型206の方はそのままで残っていました。
あの廃車体はその後10年以上も残っていたのですね。
当時、大場車庫には様々な廃車体が残っていて私も撮る意欲は全くありませんでしたが、撮っておけば後で役立つだろうと関心ないまま撮っておきました。
esehokuさん
廃線直後の風景には独特のものがありますね。
先日まで走っていた鉄道が今日はやってこない、乗客がいた駅はひと気がなく静まり返っている、当たり前にあった日常の動きが突然停止してしまう、こんな廃線直後の風景はどこでも一緒だったと思います。
加南線の廃線直後も想像できます。
最終日翌日に訪問したことがありますが、前日とうって変って二度と動かない車両達が印象的でした。
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