インフルエンザに罹り約半月間を無駄にしました。
米坂線の話を纏めている頃に発熱し、米坂線が中途半端に終わってしまいました。
元に戻ったので、停止していたブログも少しずつ始めたいと思います。
FB投稿から再掲
かつて八幡平の標高1000m前後に松尾鉱山の従業員家族が住む近代的都市があった。鉄筋コンクリート建物で水洗トイレ、スチーム暖房完備の雲上都市が形成され「雲上の楽園」とも呼ばれた。
この雲上都市から盛岡に出るのは随分時間が掛かったそうで、雲上都市からバスで東八幡平に下り、松尾鉱業鉄道で大更へ出て花輪線に乗換えて盛岡の街へ出る。
写真の1966年頃は閉山へ向かう衰退時期だったそうである。
松尾鉱業鉄道 1966年3月

電機が客車2両を牽いた列車が大更を発車し、やっと陽が昇る頃、窓の向うに雄大な岩手山が見えて来た。荒涼とした沿線には人家も何もない。そんな沿線にあった保線区の廃車体ユニフ1。明治27年製の古典客車だった。
松尾鉱業鉄道の終点東八幡平駅に雲上都市の住民がバスや車で下ってくる。雲上都市は遥か彼方雲の上なのだろう。
東八幡平を出た列車が大更に到着し、花輪線に乗換える乗客.
大更で花輪線に乗って盛岡に出る乗客の多くは雲上都市の住民と思われる。
ハチロクの花輪線撮影で最も気に入った1点です。
ハチロクの花輪線撮影で最も気に入った1点です。




6 件のコメント:
今日は インフルエンザに罹りましたか 大変でしたね 出掛る時は人込みを避ける様にしてますが何時罹るか解りませんね。
jha141さん
いや~参りました、約半月間を自宅療養。お陰で11月に集中する様々イベントやランチ会の予定も全て欠席。
インフルは風邪程度と言われても、下の世代と違い高齢者は別ですね。肺に二次感染したら命とりになります。わが身の自身過剰で防備が甘過ぎました。jha141さんも十分気を付けて下さい。
私が松尾鉱山の電車撮影に行ったのは1970年頃の夏で、この鉄道の末期でした。大更まではたどり着いたのですが、その後の予定が詰まっていてとうとう車両を見ることなく涙を飲んで引き返した思い出しかありません。
ネットで見てもほとんどがモノクロで、わずかにオレンジとクリームのツートンカラーの写真が確認できる程度です。この色調は国鉄気動車色なのでしょうか?また廃車された客車の写真では青系の塗分けのようですがELとは違うようにも見えます、真相は如何だったか記憶をたどっていただけたら幸甚です?
鹿部電鉄さん
昭和40年以降の派手カラーになる以前は、ヒギンスさんの写真くらいしか手掛かりがありません。手元にあるヒギンスさんの写真集によれば、電機ED501と客車は同系色で濃淡の水色に塗られています。同じ昭和36年撮影でも、もう一台の電機ED502はクリームとブルーに塗られています。私がモノクロで撮った昭和41年はまだ地味カラーですが、昭和36年のカラーとは違うようです。
昭和36年のED501と客車の濃淡水色は、如何にも昭和30年代の地方私鉄カラーリングの魅力を感じます。
ここに突然阪和形の電車がやってきたのに驚いて、大更に行かなくては!と思ってるうちに廃止されてしまいました。非電化の国鉄支線に突然現れる架線、なんだか不思議です。
Cedarさん
そう言えば、国鉄花輪線大更駅の構内にも架線が張られていますね。電機が貨車の付け替えをやっていたのでしょうか。
この頃の花輪線はハチロク蒸機3重連のメッカで、竜ヶ森あたりに撮りに行くファンが殆ど。大更から出ている電化路線などに踏み入るファンは少なく変人でした。
コメントを投稿