案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2022年6月2日木曜日

ある夏の新小松車庫

 昭和37年、尾小屋鉄道の新小松で見た車庫風景です。
機関車DC121のカラーもまだクリーム/赤になる前で濃淡の緑だったような?
これから時代が変わる前で、それまでの尾小屋鉄道がそのまま残されている
感じがした昭和37年の真夏でした。


撮影:1962.8.1


機械工場。


機械工場の一角。


当時の日本鉱業㈱の社紋が入っていた。
この年(昭37)に日本鉱業が尾小屋鉱山から撤退。

協三工業製の美しいDC121足回り。
一部に蒸機の部品を利用していると言われている。


新小松の車庫と工場の全景。


車庫の反対側には新小松駅。踏切番がいるようです。


炎天下の日立製キハ2.旧塗装で赤帯が入っていた。


キハ2のエンジン回り






赤帯入りの旧塗装 キハ1。


立山重工製14.5tCタンク 5号機。
まさかこれが動く時代がやって来るとは思ってもいなかった。



4 件のコメント:

esehoku さんのコメント...

新小松駅の風景は、この15年後に廃線になるまでそう変わらなかったように記憶しています。
最後の画像、貨車の手すりにかかっている白い布は何でしょう? シャツのように見えますが、構内作業員さんが適当に脱いで掛けてあるのか、洗濯でもして干してあるのか…いずれにしても、この無造作な風景が尾小屋だと思いました。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
白い布は作業着のようですね。
末期の新小松の車庫では左の線路2線が外されてバスの整備工場になって、
バスと鉄道が混在している車庫になっていました。
確かに駅はその後もそう変わっていないようでした。

気動車など塗られていた旧塗装(赤のラインが入ったグリーン濃淡)が
この後、全て黄/赤に統一され昭和30年代らしいカラーが消滅して
それまでの尾小屋鉄道のイメージが随分変わった気がしたものです。
そう言えば当時三重交通から来た木造客車もまだ三交カラーでした。

Repu さんのコメント...

生まれも育ちも小松なので、あまりに懐かしくコメントさせていただきます。
尾小屋鉄道には小学生の時に毎夏、西俣町にキャンプに出掛ける時に乗りました。終着の尾小屋の1つ手前の駅で降りて、テクテク歩いて行ったことを覚えています。
また「遊園地前駅」というのがありましたが、1970年ころには既に遊園地は無く、子ども心ながらに不思議でした。

katsu さんのコメント...

Repu さん
生まれも育ちも小松でしたか。
昔の尾小屋鉄道の日常はよ~くご存知ですね。
そして今の変わりゆくJR小松駅東側のコマツ工場跡地の変貌ぶりもよくご存知ですね。
私にとって尾小屋鉄道と小松市は最も多く訪問した土地でした。
今やあの時の風景は全てが消えてしまったようですね。