案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年1月18日土曜日

竜ヶ崎の4号機。

鹿島参宮鉄道竜ヶ崎線で竜ヶ崎鉄道から唯一の生き残り4号機(大正14年 川崎造船所製)。
1962年と1963年に訪問した時は4号機が盛んに活躍していて
龍ケ崎の街と竜ヶ崎線にまだ勢いがあった時代。
スキャニングをやり直して竜ヶ崎駅で活躍する4号機をアップしてみます。


撮影:1962年3月と1963年8月
4号機がよく似合う背後に並ぶ古風な日通倉庫。1962.3.29
今は蒸機よりもこれらの倉庫の造りに目が向きます。
気になる日通倉庫の奥に延びる線路の行止まりには古典客車ハフ2が休んでいた。
倉庫の荷役作業者らしい前掛けのおじさんがいたところ。


何人も張り付いて貨物入替を盛んにやっている風景。1962.3.29

松井車両製片ボギー車ハフ15(荷物車)が組み込まれた編成。1962.3.29
駅前のボンネットバス、道行く人などまるでジオラマの世界のよう。

国鉄貨車を牽いて佐貫へ向かう貨物列車。1963.8.17
この時の貨物列車は片ボギー車ハフ15(荷物車)が連結されていなかった。

4 件のコメント:

モハメイドペーパー さんのコメント...

 1962年だと私は高校2年。上野から1時間くらいでまだこういう世界があったのですね。 

katsu さんのコメント...

モハメイドペーパーさん
東京通勤圏でまだこんな風景が残っていました。
4号機だけでなく5号機もまだ健在でした。
竜ヶ崎線、何を撮っても興味深い写真が撮れた時代だったと思います。
機関区の先にあった日通倉庫の一帯を撮らなかったのが残念です。

黒ユリ さんのコメント...

ご無沙汰しております。お正月の記事を拝見して、素晴らしい賞を受賞されたそうで、おめでとうございます。
私のような鉄道には全く素人でも、楽しませて頂いております。コメントを拝見すると、皆さま鉄道に関してプロ級の知識をお持ちのようで、私には全く手も足も出ません。

でも今回は、鹿島参宮鉄道、それに汽車が川崎造船所製という言葉に惹かれて伺いました。江戸時代の庶民は、鹿島・香取両神宮に参るのが習慣だったそうですが、列車がなかった当時、利根川など水運を利用して移動したそうですね。利根川を今の銚子市まで通したのもこの時代でした。馬車も発達しなかった日本は、船を活用したんですね。子供の頃、写真で見た潮来の花嫁が印象的です。つくづく家康の都市計画は、凄かったと思います。

話は逸れますが、美術史家の田中英道氏が、皇室の起源は関東にあり、と主張されています。その理由の一つが関東に鹿島・香取という神宮と名のつく神社が二つもある事です。それに縄文遺跡は圧倒的に関東東北に集中して発見されていることです。
関係ない話になって失礼しました。また時折訪問させて下さい。

katsu さんのコメント...

黒ユリさん
お久しぶりです。
ブログの浅野川線では内灘闘争の話をコメント戴きありがとうございました。おかげで昨年のTMS連載第3回浅野川線では内灘の戦後歴史をいろいろと調べて内灘駅の歴史的背景にちょっとだけ触れることができました。

今回の鹿島参宮の鉄道名ですが、もう一本ある石岡から霞ヶ浦沿いに鉾田まで走っていた鉾田線につけられた名称で、この鹿島参宮鉄道鉾田線に吸収された竜ヶ崎鉄道が鹿島参宮鉄道竜ヶ崎線となったものです。鹿島神宮とは無縁の竜ヶ崎線なのです。
また、鉾田線は石岡から鹿島神宮と結んで鹿島参宮鉄道を計画したもののいろいろな思惑から終点があさっての鉾田になってしまった。そこで途中の浜駅から霞ヶ浦を水路で鹿島神宮まで客を運んだものの、既存の水路やバスに宮を奪われ、鹿島参宮鉄道の名称通りには行かなかったようです。