案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2024年4月24日水曜日

能登の思い出

1972年と1962年の能登 


内浦

奥能登観光全盛時代の国鉄能登線を行く
奥能登号.1972年秋


以下は北陸鉄道能登線 1962年夏

美しい松林を行く列車.
左手の小さな半島の向こうに柴垣海水浴場がある.滝-柴垣


国鉄七尾線に接続する羽咋駅.
能登線の奇妙な車両があちこちにいた時代.


小型ボギートレーラ.  コハフ3001


朝の能登線羽咋駅構内.
背後にC58の煙がたなびく.

七尾線のC58



5 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

1970年の夏に能登半島旅行しました男3人女子2人で非鉄旅だったのですが、SL奥能登号には乗りました。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
1970年は奥能登観光が人気になった時代ですね。
SL奥能登号に乗って奥能登を旅したとは羨ましいです。
私は1972年に奥能登の良さも知らずにクルマで海岸沿いをグルっと回り、
鉄道抜きのあの時代の能登の旅が良い思い出になりました。

匿名 さんのコメント...

久しぶりのコメントです…。

私が初めて能登を訪れたのは、まさにその1972年の夏休み。金沢から急行列車に乗り、まだ冷房がなく窓を全開にして涼しい海風を一杯に受けた快感、恋路海岸や「軍艦島」の前の海岸で海水浴をしたこと、SL列車を見に行ったこと、「外浦」方面巡りで乗った観光バスが総持寺の駐車場でいつの間にか移動していて一同「迷子」になりかけたこと、北鉄能登線が直前に廃線になっていて、終点だった「三明」や次は「のといちのみや」と書かれていた羽咋駅の駅名表示板がむなしく残っていたこと…。
あれからはや40余年。元日に起きた大地震、能登の景色は全く一変。一面の焼け野原と化した輪島市街、押しつぶされた民家。外浦の海岸は隆起して漁に出られなくなり漁場も壊滅、内浦には津波。いまだ窮屈な避難生活を強いられる多くの住民、ただでさえ激しい過疎化が更に加速度的に進んで行くのは必至に。そして、「奥」のほうの鉄路がどちらも消えた能登のみならず、JRの何とも一貫しないちぐはぐな対応に振り回された北陸の鉄路の見るも無残な現実。どうにも中途半端な新幹線の敦賀延長で、せっかく京阪から和倉温泉まで乗り換えなしに行けるようになったのが、2度の乗り換えを強いられ、これでは高速バスやマイカーに流れて行くのは必然か…。
先の大地震の被災状況から見ると、たとえ穴水から先の路線がどちらも残っていたとしても、この状況ではやはり復旧・存続させるのは相当難しいでしょうか。それでも、のと鉄道の残存区間が全線再開にこぎつけた、というのは、一筋の光明が見えたような気がします。

伊豆之国 さんのコメント...

先ほどのコメントは私のものです。
久しぶりで操作に慣れていないのですみません…。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
久しぶりのコメントありがとうございます。
文章からすぐ伊豆之国さんと分かりました。
1972年夏に能登訪問しましたか、私は1972年9月で同じ頃ですね。
あの頃はほんとうにひなびた奥能登でした。

北陸鉄道能登線の廃線直後は戻ってから知りました。
もし知っていれば私も駅跡に立ち寄っていたはずです。
能登金剛の民宿で出会った人が台風で移動できず、
車で金沢まで送り金沢市内を観光し更に岐阜まで送ってあげたことが
能登の良い思い出になりました。