案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年11月18日月曜日

尾小屋鉄道 大杉谷口の朝

大杉谷口の鉄橋を渡る朝の上り2番列車。通勤・通学列車なのか客車を5両も牽いていた。

あちこちに使ったこの写真に続く場面が以下の大杉谷口の朝であった。
冷え込む朝の駅で列車を待つ人たち。この日は大晦日前日で通勤客だけではなく正月の買物で街へ向かう人もいたのかも知れない。

撮影:1964.12.30
大杉谷口駅に到着。

新小松へ向かう。

早朝の下り列車

8 件のコメント:

にぶろく さんのコメント...

尾小屋で5連とは!!
交換駅・金平や西大野の有効長が心配になります(笑)
この写真の10年以上後に同じ場所で撮影しましたが
道路が舗装され客車が更新された他は
大杉谷駅もDC121もキハ1も変わりありませんでした。

katsu さんのコメント...

にぶろくさん
軽便は床が低いのでホームがないところでも
子供や高齢者を除けばひょいと乗り降りできるでしょう。
この5両編成で三重交通からきた2両(後に車体更新)は台車が可愛くて
軽便の中でも特に床が低いです。
あれから10年以上にも亘り鉄道を継続させたことは驚異的ですね。

esehoku さんのコメント...

バリアフリーなんて言葉さえもない時代…本当に、子供や高齢者はどうしていたんでしょうね…?
そういえば何かの本で、北鉄能美線の低いホームから高く足を上げて電車に乗り込んでいる画像がありました。また、編成に対してホームの長さが足りず、それでも構わず全部のドアが開かれていました。
国鉄に目を向ければ、客車のデッキにも人がはみ出しているどころか、鈴生りになって外にぶら下がっていたほどですが、あれで「人が落ちた」という話は聞きませんし(実際にはあったのかもしれませんが)、大変な時代だったけれど、万事に大らかだったのでしょうか。
尾小屋は大らかも大らか、これもまた別の本で読んだエピソードですが、尾小屋行きキハ2のデッキに牛乳のタンクやら肉を構わず積んでいたのを見て(どうも夏場だったらしいです)、著者はその日、尾小屋の旅館に泊まるつもりだったのをキャンセルしたとか…。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
昔は家族で出かけるので子供や高齢者も家族のサポートで問題はなかったのでしょう。
乗客や鉄ファンの危うい行動なども自己責任、マナー違反なんて用語もなかった、
客車のドアが開いていようと騒ぎになることもなし等など、
全てがゆるい大らかな時代でした。
今は窮屈な社会になってしまったものです。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
キハ2のデッキに牛乳缶を積んでは寅さん映画で有名になりましたね。
牛乳缶運搬あれはほんとうだったのか?
キハ2のデッキに鉄道職員を載せて走ったところは撮りましたが、あれは違反行為だったかもしれません。
もし違反としても誰も知らない規約で注意する人もいなかったでしょう。

石鉄 さんのコメント...

私たち地元の者にとっては何でもありといった感じでした。
客車には発電装置を装備していなかったので動力車からコードを引っ張り
ソケットで接続していました。

あるとき誰かがソケットを外したのか自然に外れたのかはわかりませんが、
後の車両は停電状態、車掌は慌てて前の車両に渡り
ソケットを差し込んでいました。

katsu さんのコメント...

石鉄さん
確かにありました電源コードとソケット。
今だったら車内で停電になったら大騒ぎ、
けど昔は停電になってもきっと騒ぐことはなかったでしょう。

昔の軽便はどこでも何でもありだったと思います。
脱線しても何かで持ち上げレール上に戻すあたりはまるで模型のようです。

esehoku さんのコメント...

そう言えば、北鉄加南線の写真展で、満員の電車の連結器に車掌さん?が乗って大聖寺を発車していくのがありました!
今なら考えられない光景に唖然としました。
あれ、入れ換えか何かならわかるのですが、本当にあのまま山中か山代に向かったのかと思うとゾッとします。
あの先まもなく、三谷川に架かる鉄橋もありましたし…