案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2014年5月26日月曜日

奥山線 三方ヶ原台地

谷の坂を登りきってカーブしたところに都田口の駅があり、そこから豊岡、三方原駅を過ぎ曳馬野まで三方ヶ原台地を一直線に進み非電化区間が終わる。単調な直線区間であったが松の木がある都田口駅が魅力的でここで客車増結などが行われた。そして都田口と似たような駅舎が三方ヶ原にもあった。
この都田口~曳馬野間は砂利道が線路と並走しそこを代替バスが走ったようだ。この単調な大平原のような風景はその後浜松市のベットタウンとして開発され今や昔の面影は全く残していないことだろう。

遠鉄浜松~奥山まで奥山線の駅名
新浜松~西鹿島は遠鉄二俣線(現西鹿島線)

都田口駅前にはバス停があって廃線前からバスは走っていた. 1964.10.31
この駅舎に駅長が住み込みだったそうだ。

奥山発のキハ1804が気賀口で増結し曳馬野へ向かう.都田口 1963.04.04

素晴らしい佇まいの都田口駅もこの日が最後. 1964.10.31
最終日の切符

都田口駅の賑わい 1964年3月

松のある都田口を出て曳馬野へ向かう   1964年3月

朝日を浴びた最終日の三方原(みかたはら)駅.そして砂利道とバス停.  1964.10.31
翌日からは砂利道に立っていたバス停で代替バスを待つことになる。
鉄道からバスに切り替えるとは云え道路はまだまだ未整備のままであった。

最終日の切符

6 件のコメント:

宵闇 さんのコメント...

今もし奥山線が残っていたらどんな路線になっていたでしょうね。

恐らく西鹿島線と同規格の電化路線になり、三方原まで高架線になっていたかも知れません。
奥山近郊で12分ヘッドで運行して、宅地化も進んだでしょうねと先週西鹿島線に乗っていてつくづく思いました。

影武者 さんのコメント...

改軌・高架化までは厳しいでしょうが、金指止まりで全線電化の、ちょうど今の三岐鉄道
北勢線みたいな感じになっていたのでは?
ここに限らず廃止後の宅地化の伸びから、もし生き残っていれば都市近郊路線として
機能していたかもしれない路線は日本全国に散見されますね。

ちなみに、都田口駅跡は現在パチンコ屋の駐車場と化しているようです・・・。(-_-;)

katsu さんのコメント...

宵闇さん
奥山線は曳馬野までは30分ヘッドで走っていて乗客も多かったのに、軽便鉄道への見切りが余りにも早過ぎたと言われています。
当時は軽便鉄道や路面電車は時代遅れの風潮があったのでしょう。

もし奥山線が残っていたらは私も思いました。
三重交通(現三岐鉄道)北勢線のように近代化して発展していたら2'6''でもコンパクトな公共交通として活躍できたのでは?
地方都市では高齢化社会でマイカーから高齢者に優しい公共交通への移行が重視される時代です。
近代化軽便でも輸送力は十分ではないでしょうか。地上からホームまでの低落差も優しい交通です。
何故か近代化軽便北勢線の良い話題は余り聞きませんね。

katsu さんのコメント...

影武者さん
もし奥山線が残っていたらをコメント書いていたら
影武者さんの北勢線のコメントが!
全く同じですね。
私はいつも北勢線をイメージしてしまいます。
LRT導入はよく話題になりますが、何故か近代化軽便はまず話題に上りませんね。
軽便規格でもかなり進歩的な鉄道が作れると思うですが。

影武者 さんのコメント...

>近代化軽便
用地買収面積の狭さや地上設備の小ささといったメリットよりも、車両規格の特殊さ、
駆動方式の制約、高速度での安定性、他鉄道との乗り入れが不可能といったデメリットの
方がはるかに大きいからではないでしょうか?
近鉄ナローもこれらが足枷となって近代化から取り残されてしまいましたからね。

katsu さんのコメント...

影武者さん
日本の地方私鉄ナローが全滅に近い中で北勢線はよく生き残って活躍したものです。
ナロー鉄道には高速化や安定性を追及する近代化ではなくて路線バスやマイカーにとって代わる合理的な輸送システムができるのではないでしょうか。
単なる車両開発ではなく町づくりのシステムとして。