世田谷線の沿線では、個別の建物の建替え等はあっても、全体として街並みの雰囲気が維持・継承されているのは確かです。松陰神社前駅の南西、やや世田谷通り寄り(サミット松陰神社前店の裏手のあたり)に伯母が住んでいたのですが、幼かった頃に見たのとあまり変わらないと思えるような街並みの雰囲気を、数は少なくなり多少とも更新・変更が加えられているとはいえ以前から同じ場所に建ち続けているいくつかの建物とともに、今日でも再体験できるのは幸福なことです。しかし、世田谷駅周辺の最近の変化はかなり残念で、これは宗教施設でさえも大きな変化を免れないという例にほかなりませんが、「豆汽車」で有名な幼稚園を移転させ、墓地を移動させてまで道路を拡張する必要があったとは到底思えません。これも熊本区長時代の世田谷区の時代錯誤な愚行のひとつだと思います。
伯母が存命の頃はサミット松陰神社前店はまだありませんでしたから、「伯母が住んでいた」のは、正確に言うなら「現在のサミット松陰神社前店の裏手のあたり」でした。伯母がよく共悦マーケットで買い物していたことを先日母から確認できたのですが、共悦マーケットも全体としての松陰神社通り商店街の雰囲気も私の幼い頃と大きくは変わっていないという印象をもちます。たびたび失礼しました。
昔日の下高井戸の風景、東京郊外の雰囲気も残っていて良いですね。京王線の14メートル電車の活躍、どこでもドアで見に行きたいです。山下付近の情景も良いですね。私も何度となくこの辺りで80形を撮ったことがあります。下北沢の狭い地下駅で乗り換えなどせずに、この80形で渋谷まで揺られたいです〜
Tosiさん世田谷線の世田谷駅を10年前位に撮った事があるのですが、デジカメ時代以前のネガカラーの整理が悪くて困ったものです。その後、世田谷駅周辺が道路拡張で風景が変わったのですか。確か踏切脇の絵になる店を入れて撮ったような記憶があります。輸送量がそれほどないため成り立つのでしょうけど、環七のような大動脈でさえ今も踏切で全て地上駅であるのがいいですね。
chitetsuさん京王線の中型車は素晴らしいですね。と云っても私は現役時代はそれほど感じていなかったのですが、今見ると惚れぼれするデザインです。こんな格好いい電車が生まれた時代はどれも設計者自身のデザインなのでしょう。工業デザイナーなどは入らなかった時代だったと想像します。
はい。これは梅ヶ丘側から世田谷通りに延びる道路の拡幅・全通計画の一部なのですが、とくに世田谷駅から世田谷通りにかけての区間で、円光院の敷地を斜めに大きく削り、無理やりとしか言いようのない形で弦巻側や駒沢方面に道路を繋げています。モータリゼーションの時代ならともかく、高齢者関連以外の財やサーヴィスの市場、とくに自動車市場が飽和から縮小に転じつつある現在の日本のような国で、いまだにこのように凄まじく時代錯誤的な公共事業が強行されるのはきわめて残念なことだと思います。
「玉電」世田谷線には、「ボロ市」見物でほぼ毎年のように乗りに行くのですが、車両や駅が新しくなったり、建て替えられた家が増えたりして部分的な変化は結構有り、山下駅の近くにあった小さな畑も十数年前頃には宅地に変わっていましたが、それでも沿線全体の雰囲気は30年くらい前と大きく変わっていないような印象があります。西太子堂駅前や山下駅の小田急ガード下側など、踏切警報機の電動ベルの音がやたらに大きくて子供心に大変怖かったことをつい最近の出来事のように思い出します。宮の坂駅に保存されている80型は、車両番号・ステップを切られた車体・レール幅と、江ノ電時代の姿になっていて、「玉電」時代に復元されていないのが非常に惜しいです…。
伊豆之国さん今の世田谷線を見ていると鉄道と人の風景も昔のままのような気がします。輸送力と需要がバランスして変化の必要がないのでしょう、何かほっとする楽しい鉄道風景ですね。保存されている80形、気が付きませんでしたが江ノ電時代の姿でしたか。大橋車庫で撮ったネガを整理しているところですが玉電時代の各車両の姿は楽しいですね。
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8 件のコメント:
世田谷線の沿線では、個別の建物の建替え等はあっても、全体として街並みの雰囲気が維持・継承されているのは確かです。松陰神社前駅の南西、やや世田谷通り寄り(サミット松陰神社前店の裏手のあたり)に伯母が住んでいたのですが、幼かった頃に見たのとあまり変わらないと思えるような街並みの雰囲気を、数は少なくなり多少とも更新・変更が加えられているとはいえ以前から同じ場所に建ち続けているいくつかの建物とともに、今日でも再体験できるのは幸福なことです。
しかし、世田谷駅周辺の最近の変化はかなり残念で、これは宗教施設でさえも大きな変化を免れないという例にほかなりませんが、「豆汽車」で有名な幼稚園を移転させ、墓地を移動させてまで道路を拡張する必要があったとは到底思えません。これも熊本区長時代の世田谷区の時代錯誤な愚行のひとつだと思います。
伯母が存命の頃はサミット松陰神社前店はまだありませんでしたから、「伯母が住んでいた」のは、正確に言うなら「現在のサミット松陰神社前店の裏手のあたり」でした。伯母がよく共悦マーケットで買い物していたことを先日母から確認できたのですが、共悦マーケットも全体としての松陰神社通り商店街の雰囲気も私の幼い頃と大きくは変わっていないという印象をもちます。
たびたび失礼しました。
昔日の下高井戸の風景、東京郊外の雰囲気も残っていて良いですね。
京王線の14メートル電車の活躍、
どこでもドアで見に行きたいです。
山下付近の情景も良いですね。
私も何度となくこの辺りで80形を撮ったことがあります。
下北沢の狭い地下駅で乗り換えなどせずに、この80形で渋谷まで揺られたいです〜
Tosiさん
世田谷線の世田谷駅を10年前位に撮った事があるのですが、デジカメ時代以前のネガカラーの整理が悪くて困ったものです。
その後、世田谷駅周辺が道路拡張で風景が変わったのですか。確か踏切脇の絵になる店を入れて撮ったような記憶があります。輸送量がそれほどないため成り立つのでしょうけど、環七のような大動脈でさえ今も踏切で全て地上駅であるのがいいですね。
chitetsuさん
京王線の中型車は素晴らしいですね。と云っても私は現役時代はそれほど感じていなかったのですが、今見ると惚れぼれするデザインです。
こんな格好いい電車が生まれた時代はどれも設計者自身のデザインなのでしょう。工業デザイナーなどは入らなかった時代だったと想像します。
はい。
これは梅ヶ丘側から世田谷通りに延びる道路の拡幅・全通計画の一部なのですが、とくに世田谷駅から世田谷通りにかけての区間で、円光院の敷地を斜めに大きく削り、無理やりとしか言いようのない形で弦巻側や駒沢方面に道路を繋げています。モータリゼーションの時代ならともかく、高齢者関連以外の財やサーヴィスの市場、とくに自動車市場が飽和から縮小に転じつつある現在の日本のような国で、いまだにこのように凄まじく時代錯誤的な公共事業が強行されるのはきわめて残念なことだと思います。
「玉電」世田谷線には、「ボロ市」見物でほぼ毎年のように乗りに行くのですが、車両や駅が新しくなったり、建て替えられた家が増えたりして部分的な変化は結構有り、山下駅の近くにあった小さな畑も十数年前頃には宅地に変わっていましたが、それでも沿線全体の雰囲気は30年くらい前と大きく変わっていないような印象があります。西太子堂駅前や山下駅の小田急ガード下側など、踏切警報機の電動ベルの音がやたらに大きくて子供心に大変怖かったことをつい最近の出来事のように思い出します。
宮の坂駅に保存されている80型は、車両番号・ステップを切られた車体・レール幅と、江ノ電時代の姿になっていて、「玉電」時代に復元されていないのが非常に惜しいです…。
伊豆之国さん
今の世田谷線を見ていると鉄道と人の風景も昔のままのような気がします。
輸送力と需要がバランスして変化の必要がないのでしょう、何かほっとする楽しい鉄道風景ですね。
保存されている80形、気が付きませんでしたが江ノ電時代の姿でしたか。
大橋車庫で撮ったネガを整理しているところですが玉電時代の各車両の姿は楽しいですね。
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