案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年6月7日日曜日

鉾田線 桃浦駅のこと 

関東鉄道鉾田線(その後の鹿島鉄道)を訪ねたのは1966年夏、もう54年も前のことでした。
先日、facebookに投稿したのがこの桃浦の1枚。

霞ヶ浦に日が沈む頃、夕陽を浴びて桃浦を行くキハ42201。1966.8.28

旧東横キハ2両のうちこの42201は翌年に両端を切妻2枚窓に改造されてしまった。美しい流線型に金太郎塗分けで活躍していた旧東横の42201最後の夏だったかも知れない。旧東横の2両は塗装変更して1976年まで活躍した。

こちらはキハ42202

ところで、この湖畔の写真を撮ってから霞ヶ浦の帆曳船を眺めながら引き返した桃浦駅のことを書きたかったが写真が1枚もなし、あったのは2007年の廃線直前に撮った無人駅の桃浦でした。そこで駅員が駐在していた頃の桃浦駅の写真をお借りしました。

有人駅だった頃の桃浦駅 1981年。良玄通信さんのサイトより許可得て掲載。
1963年2月には貨物営業を廃止している。

あの1966年の夏、霞ヶ浦の湖面に陽を反射しながら沈みゆくオレンジ色した夏の太陽と情緒ある帆曳船を眺めながら1日の撮影を終えた。湖畔から夕暮れの桃浦駅に戻ると委託駅の駅員さんから冷たいスイカをごちそうになり美味かったこと。ポツンと燈がついたクモの巣だらけの裸電球の下にテニス帰りの高校生たちが賑やかに集まってきた。


41年ぶりに訪問した桃浦駅。'07.03.08
丸太小屋風に建て替えられた無人駅桃浦。

霞ヶ浦湖水浴の時代には桃浦の駅も賑わったことでしょう。

6 件のコメント:

丹後良玄 さんのコメント...

いまや、丸太小屋の駅舎も解体され、ホームこそ残っているものの、かつての線路跡にはソーラーパネルが設置されています。いつまでもあのままではいけないのも分かっていますが、かつての鉄道跡が失われていくのは寂しいです。

katsu さんのコメント...

丹後良玄さん
桃浦駅の貴重な写真ありがとうございました。
桃浦駅の写真はほとんどが丸太小屋風の無人駅で有人駅桃浦の写真は貴重です。
今は線路跡にソーラーパネルとはちょっと・・。
駅のホームが残っているのに残念ですね。

esehoku さんのコメント...

クルマの免許を取って間もない頃、霞ヶ浦近くの某大学に通っていた悪友に言われるままに運転手を務め、茨城の海までドライブした時に偶然出会えたのが鹿島鉄道でした。
昭和57年頃ですから、画像の桃浦旧駅舎を始めとして、古い設備があちこちで現役だったと記憶しています。
鉾田の駅舎が印象的でした。地方私鉄の終着駅に相応しく、しかも個性あふれるデザインでしたから、廃線後、なんとか残してほしかったと思いました。
画像のキハ42200はとっくに原型ではありませんでした。やはりオリジナル時代の、それも金太郎の腹掛け塗りの頃が関東鉄道時代に似合っていると思います。

chitetsu さんのコメント...

最初のカット、FBでも拝見しましたが素晴らしいですね〜
前面の窓から入る風が気持ち良さそうですね。
この場所に居たかったと思いました。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
私も昭和60年頃に家族を連れて茨城の海に海水浴に行った帰りに鉾田を通りました。
その時は全く関心がなく当時の鉾田線を一枚も撮っていませんでした。
当時は茨城に住んでいてクルマの生活だったので、クルマ活用してよき時代の鉾田線沿線をいくらでも撮影できたのに全く撮りに行きませんでした。
その頃は旧東横などが消えていたので関心向かなかったかも知れません。

katsu さんのコメント...

chitetsuさん
正面サイドに三角窓がありますね。
クルマみたいな三角窓で霞ヶ浦の風を取り込んで涼しかったと思いますが、
残念ながら撮影に夢中で乗ることはありませんでした。
クルマに付いていた三角窓もいつの間にか消えてしまい過去の遺物を知る人も少ないでしょう。
かっての鉄道では夏は窓もドアも開放して走行することがあり、夏の空気を一杯吸ったことが懐かしくなります。