案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2016年1月28日木曜日

栃尾線 上見附の風景

昭和39年の栃尾線で印象的なことは越後平野/加津保の寒さと奇怪な車両の多さであり、平凡な沿線風景に風情を感じられるものはなかった。この時の車両については過去に紹介済みであり、今回は田辺さんが撮った上見附の風景から当時の駅建物や民家に注目してみました。写真で見る当時の木造民家などは、年々時代が遠のいていくにつれ感じ方が変化していくようだ。田辺さんとはこの栃尾線と翌日からの遠鉄奥山線を共に撮り歩いた。

撮影:田辺多知夫 1964.03.22
上見附駅の駅舎.看板には「タクシー料金は現金で頂戴する」と. 

日通倉庫が何棟か連なり石炭ストーブの煙が立ち込めている.

日通倉庫と貨物ホーム

スイッチバックして栃尾に向かう列車.周辺に見える昭和の木造民家.

上見附駅の周辺の草むらの向こうに木造民家が並ぶ.

上見附駅のホーム待合所.

次々とやって来る列車でハイライトはこの電機牽引の珍編成.上見附

8 件のコメント:

影武者 さんのコメント...

クレジットカードも普及していなかったこの時代、タクシーで現金以外に出しそうなものって何でしょう。
切手印紙類?食料品などの現物?

katsu さんのコメント...

影武者さん
せまい社会で地元顔見知り客は飲み屋の「つけ」
のごとくで乗れたのではないでしょうか。
まだまだクルマも少ない時代にこんな田舎でタクシーとは驚きます。

esehoku さんのコメント...

しかし思うのですが…
この時代の駅って、軽便なので「小さい」のは当然なのでしょうけど、小さいながらも、駅舍と言い構内と言い車両と言い、すごく立派で凝っていたり、人のための思い入れが感じられたり、それが不合理な作りをしていても、愛着を持って使われていたり…。
今回の栃尾線の画像も、それをひしひしと感じます。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
栃尾線は小さな軽便だけど立派でした。
垂直カルダン、総括制御、自動連結器、CTC、新工場建設など様々な近代化を遂げたものの小さな軽便サイズゆえに不合理でした。また不合理ゆえの滑稽さがありました。あの近代化は生き残りのためのお客サービス向上の思い入れだったのでしょう。

影武者 さんのコメント...

なるほど、つけねぇ・・・。
そこで敢えて現金でと強調しているところを見ると、踏み倒した客でもいたのかな。(笑)
栃尾線の手入れの良さは写真からでも十分に伝わってきます。軽便としては厚いバラスト、狂いのない線路、後年行われた相次ぐ近代化。
最末期の蒲原鉄道あたりと比べてもはるかに上等な設備と車両を持っていたのでは。改めて見ると本当に廃止されてしまったのが惜しい鉄道です。

katsu さんのコメント...

影武者さん
クルマ社会にのみ込まれて消えたほんとうに惜しい軽便鉄道でしたね。
それが今になって地方都市で民鉄路線が活用されたり、
ライトレール新設が計画されたりと面白くなってきました。
日本の高度成長期に将来のクルマ社会の弊害なんて何も考えなかったのでしょう。
そして現在進めている計画は50年後をどう考えているのでしょうか。

小林秀之助 さんのコメント...

新潟県長岡市袋町が父の実家でして僕が子供の頃毎年夏休みには祖母の家に連れて行ってもらったものです。栃尾線袋町駅には国鉄との共有区間があり子供心に「何でレールが三本あるんだろう?」又、バスで寺泊に海水浴に行くとき長岡線のレールが残っていて「何で走っていないの?」と疑問に思ったのが僕の鉄道趣味の原点です。栃尾線は全線乗っていませんが悠久山線は従兄弟たちとプールに行くのによく乗りました。家族旅行の往復には181系とき、急行佐渡、夜行臨時はEF58が牽いていました。踏切で飽きもせず貨車の両数を数えたものです。

katsu さんのコメント...

小林秀之助さん
コメントありがとうございます。
栃尾線袋町の想い出をありがとうございました。
袋町駅に三線式レールがあったとは知りませんでした。
子供の頃、毎年夏休みに親戚訪問などの体験は鉄道趣味の原点になることが多いような気がします。
私も普段見る小田急以外の鉄道を見るのはそんなチャンスしかなかったので強烈な印象でした。
地方私鉄めぐりでは懐かしい旅の国鉄列車を何も撮らなかったので悔しい想いをしています。