もう1本走っていた総括制御の編成は「クハ104+クハ同+
サハ302+モハ217」で、興味深いのは元草軽の電車がサハ302として組込まれていた事である。そして小坂鉄道の明治生まれ古典客車の台車を履いた、新造クハ2両も組込まれていた。 10月19日アップの「
元小坂鉄道の台車2」
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クハ104+クハ同+サハ302+モハ217の編成。 椿沢近辺 1975.3.8 |
クハ104+クハ同+サハ302+モハ217の編成(右側)
総括制御化で昭和42年にクハ102、103、104が新造された。
草軽モハ101~105について。
草軽の5両全てが栃尾線に譲渡され、全てが栃尾線の終焉まで活躍した。
モハ101→ホハ28→サハ302
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サハ化される前のモハ208 1964.3.22 |
総括制御編成化で付随客車となったサハは草軽電車の外観をよく残し、近代化編成を魅力的に感じさせてくれた。昭和16~19年日鉄自動車製の草軽モハ100形が近代化に生き残るとは、サハ化するのによほど使いやすい車両だったのだろう。台車もそのままで、長年走り込んだ鋼板台車(雨宮型)が美しかった。
何十年も走り込んだ元草軽の鋼板台車
(鋼板とアングル材で構成された雨宮型)
6 件のコメント:
一連のシリーズは小生も同行していますが、
ネガを焼かないでもここの写真で満足しています。無機質で面白みに欠ける車両写真が蔓延している中で、鉄道の果たしてきている役割と生活、風俗、時代がよみがえってきます。そこの土地における風俗、環境、風景が新鮮に思えるそこの土地の時代を切り取っていますね。それにしても越後交通栃尾線もう少し走り続けていたかったなあ。近代化されていただけに残念です。
青蛙さん、
栃尾線の早過ぎる廃線は、ほんとうに残念というか悲惨な感じがしますね。
懸命に企業努力して近代化した結果を、あっという間にスクラップへ。
下長岡に集結され解体を待つ元気一杯な車両達の写真を見ると大変悲しいです。
企業努力してきた関係者の方々はさぞや悔しい想いをされたことでしょう。
すんごーく細いことを言うと、この写真の台車は雨宮台車ではなく、大枠では雨宮台車をコピーした台車ですね。たしか製造元は日本鉄道自動車ではなかったかな。見分け方は、雨宮純正ならば丸穴が3つ、日本鉄道自動車製品ならばまんなかが角穴で板発条が飛び出している、という点です。
というつっこみをしようと思ったわけではないのだ(=^_^;=)。雨宮台車についてはちょっとグッドニュースがあるらしいので。
銚子電鉄101がついに解体されてしまい、あーあ台車もどうせばらされちゃったんだろうなあと思っていたら。片側は古巣の東武に戻って東武博物館へ(もともとこの台車は下野電気鉄道の電車のものだったため)、もう片方はなぜだか知りませんが上毛電鉄が引き取ったそうです。「台車だけでも保存してくれよー」と思っていたら、台車だけはきっちり保存されたということで。
まだ現物は未確認なんですが、東武博物館のWebにもすでに紹介が載っていますし、大切にしてもらえるのではなかろうかと。よかったよかった。
猫が好きさん。
詳細な雨宮台車のことをありがとうございました。
雨宮の文献には草軽のことが載ってなかったので、私もコピーと思い雨宮型と記載しました。この台車メーカが判らなかったのですが、この車両メーカの日本鉄道自動車でしたか。
銚子電鉄の元下野電気鉄道の台車が保存されるとは嬉しいですね。是非見に行ってみたいものです。
どうでもいいような小ネタであり、しかも前後関係とか確認していませんからかなり不確かなんですが、そしてすでに誰かがどっかで言っていそうな気もするんですが(=^_^;=)、とりあえず気づいたものですから。
下野電気鉄道に納品された雨宮のデハ103(花巻電鉄鉄道線のデハ1・2と同型だったはず)が、下野電気鉄道の改軌によって1067ミリ化され、のちにその台車は銚子電鉄のデハ101に流用されているのですが、下野電気鉄道から雨宮台車を引き取ってデハ101を作ったのが日本鉄道自動車だったようです。いったんは日本鉄道自動車は雨宮板台枠台車を入手しており、じっくり観察するチャンスがあった、ということになります。
それが日本鉄道自動車が雨宮板台枠のコピーを作った理由であると断定できるわけではありませんが、可能性としてはそれがきっかけになったということがあり得るかもしれません。
猫好きさん
興味深いネタ続編をありがとうございます。
前から東武博物館へ行かねばと思っていました。銚子の電車101と雨宮タイプの台車、東武博物館の現物、花巻の台車、草軽の台車などを写真並べてみようと思っています。
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