案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年12月24日金曜日

加賀温泉郷行きの電車 山中線

最後は加南線の主力、山中温泉行きの山中線です。
国鉄北陸本線の大聖寺駅でロマンスカー「しらさぎ」に乗り込んだ。

日本初のオールアルミ製6000系ロマンスカー「しらさぎ」が待ち受ける大聖寺駅。1964.12.29

しらさぎの車内。

終着駅山中に到着した「しらさぎ」クモハ6011 + クハ6061。
「くたに」の後 S38年7月に登場し、まだ1年半の新車。 

新型ロマンスカー「しらさぎ」の足回りは中古品流用であった。 山中

この年に浅野川線からて転入してきたクハ1602 + モハ3501。  山中

山中駅を降りると、山に囲まれた山中温泉街の年末光景が開けていた。

こうして加南線を終えると、その日の内に小松へ移動した。
次の日は尾小屋鉄道である。

15 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

おはようございます。山中温泉が登場してまたまた見入ってしまいました。
しらさぎ号の現役姿も初めて拝見しました。
電車もいいですが、山中温泉駅前の情景がなんとも良いですね、こういう写真が私にとって貴重です、ありがとうございました。

katsu さんのコメント...

Cedarさん、おはようございます。
駅前情景の興味は私もCedarさんと一緒です。
田舎電車の温泉町風景等は電車以上に面白いですね。
この山中温泉の駅前も余ったフィルムで撮ったもので、撮る意志は無かったのでしょう。
台車や車両部分写真を撮る分、1枚でも多く駅待合室や駅前風景を撮るべきでした。
毎度同じこと云ってますが、何でこれを撮らなかったのか悔やまれます。きっと当たり前過ぎて目が向かなかったのでしょう。

ゆうちん さんのコメント...

はじめまして。素晴らしく貴重な写真ばかりでいつも大変楽しく拝見させて頂いております。特に昭和30年代の北陸地方の様子が良く伝わって来ます。私は北陸鉄道が好きなのですが、路線も次々なくなってちょっと悲しいです。
加南線は昭和30年代までは準急が結構走っていますよね。当時の準急の停車駅ご存知でしたら是非教えて下さい。その後山中線だけ急行が走り出したのは知っているのですが。

katsu さんのコメント...

ゆうちんさん
コメントありがとうございました。
加南線の主力山中線の山中駅の写真を見ると確かに準急が停車していました。
調べたのですが準急の停車駅は判りませんでした。
当時は山代線にも新動橋行き準急が走っていて
こんな閑散路線に準急は微笑ましいですね。

ゆうちん さんのコメント...

ご回答ありがとうございます。北陸鉄道は短い区間でも優等列車が多く走っていましたよね。先日鶴来駅に行ったら過去のものが展示してまして、急行板もありました。ただ古い資料は台風で水びたしになって全部廃棄したらしいです。色々大変そうですが、何とか石川線と浅野川線には頑張って欲しいですね。

katsu さんのコメント...

ゆうちんさん
よくぞ生き延びた北陸鉄道の石川線と浅野川線には頑張って欲しいですね。
10年くらい前に浅野川線の元井の頭線を見てガッカリ、もう撮るのはあきらめました。
ところが、北陸鉄道には独特の風情が残っているはずです。
車両じゃない、ですね。
最近この北陸鉄道の風情を探りたくなって来ました。

esehoku さんのコメント...

ゆうちんさん
山中線の準急停車駅は、大聖寺ー帝国繊維前ー河南ー旭町ー山中だったと思います。
急行になって大聖寺ー河南ー山中だったと思います。
山中線の交換可能な駅は、帝国繊維前・河南・旭町でしたが、晩年はほとんど河南だけで交換していました。
大聖寺ー山中間は8.9キロ、鈍行で30分かかっていましたが、急行・準急でもそれほど速達性はなかったと思いますが、気分的なものも大きかったと思いました。

esehoku さんのコメント...

P.S
山代線の準急は、おそらくですが新動橋ー宇和野ー山代東口ー山代ー河南だと思います。
こちらは自分では乗った事がなく、あくまで当時の写真に「準急」の表示が確認できるので、あった事は間違いないと思います。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
そうそう思い出しました山代線の準急。
山代駅にいた動橋行き単行電車に準急の看板が下がっていました。
こんな路線で一体どれだけ時間短縮されるのかを考えると愉快でした。

ゆうちん さんのコメント...

コメント遅くなってしまいました。esehokuさん、コメント有難うございます。
色々写真を眺めると、山中線にも山代線にも準急の表示を確認することができます。
恐らくコメントのとおり、列車交換駅に停車していたのでしょうね。
昔の「鉄道ファン」によると晩年の急行は大聖寺ー河南ー旭町ー山中が停車駅らしいです。
しかし、こんな短い路線でよく優等列車を走らせたものですね。
乗車してみたかったものです。
昭和30年代の地方私鉄の多くは優等列車があり、最後の輝きを放っていたのだと思います。

katsu さんのコメント...

ゆうちんさん
昭和30年代の地方私鉄の多くは最後の輝きを放っていた。それを私も感じています。
通学時間に学生で溢れる客車、朝の満員電車、手入れがよく輝いていた車両、掃き清められた駅構内の砂利、草が全く生えていない線路の路盤、こんな輝きがあっという間に廃線か、生き延びてヘロヘロ路線になったのが昭和40年代のクルマ社会到来であったと思います。
この日本の節目を「軽便鉄道にまだ活気があった頃」と題して講演会をやったことがあります。

esehoku さんのコメント...

4枚目の画像をよく見ると、バックの「水無山」にはロープウェイが架かっているのがわかります!
水無山には当時、展望台と遊園地があって、ロープウェイで是非行ってみたいとせがんだのですが…「ロープウェイは(料金が)高い。あんな所に行くのはダラくさい(バカらしい)。」と言われて叶いませんでした。
後で知りましたが、確かに割高だったようです。遊園地もチープだったようですし…。
その水無山の遊園地もロープウェイも、更には山中の隣町山代にあった観光センターも、昭和50年代に全てなくなってしまいました。
6枚目の、山中駅前の様子は今もそんなに変わっていませんが、あの頃の賑わいは感じられません。
田舎の、精一杯の贅沢な楽しみがあの時代にはありました。

ブログ再開を楽しみに待っています。
この通り、今までのブログをじっくり見ては懐かしさにひたっていますので…。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
心温まるコメントをありがとうございました。
コメントを読ませて戴き山中駅の記事をリニューアルしたくなりました。
写真に写ったロープウェイの逸話を知ると山中駅の物語が膨らんできます。

「田舎の精一杯の贅沢な楽しみがあの時代にはありました」はその通りで
各地にあったあの時代の懐かしい出来事が目に浮かびます。

花巻の志戸平温泉駅の脇にあった小さな遊園地でも親子が目いっぱい楽しんでいました。
子供たちは永遠に残る夏の出来事だったことでしょう。
チープな遊園地でも今のどんな立派な遊園地よりも楽しい貴重な体験だったと思います。
他にそれほど楽しみのない時代ゆえに、ぞんぶん楽しめたことは私にもたくさんあります。

esehoku さんのコメント...

レスをありがとうございます。
先のコメントをした後に、クルマで山中に行く機会があって6枚目の画像の場所(元駅前)を通ったのですが…なんと、画面右にあった石川交通(駅前タクシー)の場所が更地になっていました。
移転したのかもしれませんが、詳しい事はわかりません。
でも、鉄道時代の名残がまたひとつ消えたのが寂しく感じられました。
DC特急はくたかで上野を7時台に出て、金沢着が午後3時半、そこからED70の牽く鈍行で大聖寺まで1時間、北鉄加南線に乗り換えて30分…山中に着くのは、乗り換えロスタイム込みで夕方の5時半頃で、約10時間かかった時代を記憶していますが、今、クルマでも6~7時間で行けてしまいます。隔世の感ありといつも思います。

katsu さんのコメント...


Esehokuさん
山中には昔も今もご縁があるのですね。
昔は特急利用で上野から山中まで約10時間でしたか。
今やクルマで6~7時間、北陸新幹線使えばあっという間でしょうね。
昭和40年頃の北陸めぐりでは夜行急行で大聖寺までが随分遠く感じました。
加賀温泉郷が繁栄していた頃の山中駅前の風景がよみがえってきます。