同行しましたので、撮影場所も限られていたためか撮影風景は、まったく同じです。ここは町田のTさんも一緒だったと思います。写真から雪に覆われた八幡平の山並みと、スキーヤーたちを見ると栄枯盛衰の感。青蛙
東洋一を誇る硫黄鉱山が栄え、昭和30年頃は標高1000mの地に鉱山町(雲上の都市)が栄え、その後急速に衰えて倒産、廃坑、廃墟となる悲惨な松尾鉱山の歴史。我々が訪問した昭和41年、この鉄道は活躍していたものの、悲しい廃墟へ向かっていたのですね。
訪問した当時は電気機関車が牽く客車列車だけだったと思います。ところが調べてみると、訪問した1年後に元阪和電気鉄道の強力な電車が活躍を始めています。しかし僅か5年の活躍で親会社の運命と共にして、その後、弘南鉄道に引き取られたようです。
歴史に残る阪和の強力電車モヨ100形2両がその後入線したことは知りませんでした。使われたのは1967~69年の3年間だったようです。生き延びるための合理化だったのでしょう。大荒原と阪和の特急の組合せが興味深いですね。
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同行しましたので、撮影場所も限られていたためか撮影風景は、まったく同じです。ここは町田のTさんも一緒だったと思います。
写真から雪に覆われた八幡平の山並みと、スキーヤーたちを見ると栄枯盛衰の感。青蛙
東洋一を誇る硫黄鉱山が栄え、昭和30年頃は標高1000mの地に鉱山町(雲上の都市)が栄え、その後急速に衰えて倒産、廃坑、廃墟となる悲惨な松尾鉱山の歴史。
我々が訪問した昭和41年、この鉄道は活躍していたものの、悲しい廃墟へ向かっていたのですね。
訪問した当時は電気機関車が牽く客車列車だけだったと思います。ところが調べてみると、訪問した1年後に元阪和電気鉄道の強力な電車が活躍を始めています。しかし僅か5年の活躍で親会社の運命と共にして、その後、弘南鉄道に引き取られたようです。
歴史に残る阪和の強力電車モヨ100形2両がその後入線したことは知りませんでした。使われたのは1967~69年の3年間だったようです。生き延びるための合理化だったのでしょう。大荒原と阪和の特急の組合せが興味深いですね。
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