案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2010年6月16日水曜日

栄枯盛衰 松尾鉱山(続)

昭和41年の訪問後、5年程で幕を閉じた松尾鉱山と鉄道の悲しい歴史から、もう少しアップしてみました。


東八幡平駅の構内から雄大な岩手山を見る。1966.03.02

東八幡平駅の構内風景。 

沿線に人家は少なく雄大な開拓地のようであった。 

まるで開拓地のような風景の中を、客車1両牽いた列車が勾配をゆっくりと登って行く。 

東八幡平駅の構内作業をしている凸形電機ED251。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

過去、小さい頃まで松尾鉱山に住んでいたものです。
(小学校4年まで)やっとの事であの鉱山鉄道の写真を発見できました。
盛岡の祖母を訪ねるために、必ず利用したこの鉄道と駅舎、そして構内は今でも記憶に鮮明に残っています。鉱山に帰るのに、当時は花輪線の大更で乗り換えて、そして、この東八幡平駅でバスに乗り換えてと随分と時間がかかりました。
今は自家用車で気軽に行き帰りができる距離です。
今は全部取り壊されて、跡形も残っていませんのでとっても貴重な写真でありがとうございます。

閉山後、10年後に友達と遊びに行ったときは駅は貨物車、電車等がそのまま放置されて、雑草に埋もれていていたのをよく覚えています。

katsu さんのコメント...

貴重なコメントありがとうございました。
私が松尾鉱業鉄道を訪問した時は東八幡平駅までしか知らず、更にその上にあった雲上の楽園と言われた鉱山の町のことは何も知らず、後になって知り驚きました。
小さい頃にその松尾鉱山にお住まいでしたか!
どんな鉱山の町だったのか勝手に想像していました。
岩手山を眺める八幡平の雄大な景観が強く印象に残ったせいか、松尾鉱山とその鉄道の運命にとても感傷的になったものです。

ブログの松尾鉱業鉄道をもう少し続けてみようと思います。松尾鉱業鉄道の写真が、少しでも想い出につながれば嬉しいです。

匿名 さんのコメント...

丁寧なご返事ありがとうございます。

私が小学生の頃は1966-1969年でしたから、もう閉山が目の前でよく語り継がれている戦後から1960年頃の絶頂期とは程遠い衰退時期であったのでしょう。ですから、鉱山鉄道が人で混んでいたという印象は全くありませんでした。

鉱山のガラガラの誰もいない精錬の施設で使われないで置かれていた、トロッコでよく、友達と遊んだのを覚えてます。

私は当時、鉄筋コンクリートの水洗トイレ、スチーム暖房完備のアパートに住んでいました。とっても恵まれていたんですね。

毎年、何度も父と訪れますが、当時と比べて、植物が回帰してきたのか考えられないくらい草がぼうぼうと生えているのは驚きです。でもそれくらい、鉱山の排煙はひどかったということなのでしょうね。

もう鉱山鉄道の当時の写真を見るのは不可能なのかと探していたら、こんな貴重な写真の数々。
本当にありがとうございます。