関西本線の亀山から南紀を回り和歌山市までが紀勢本線となるが、この本線は極端に本数が少なかった。それに比べると亀山から紀勢本線を経由し多気で分かれ鳥羽へ向かう参宮線の方はずっと本数が多かった。
亀山でキハ35単行に乗って鳥羽へ向かうと、これが紀勢本線かと驚くばかりのローカルムード溢れる路線に一変。この先にある津、松坂、伊勢市などでは参宮線に頼らず名古屋から宇治山田へ向かう近鉄が生活の足であったのだろう。
近鉄を横目に走る国鉄参宮線は裏街道の感じであったが、伊勢市の先に二見浦、鳥羽、賢島など国鉄でないと行けない伊勢志摩の名所があり、参宮線はここに存在価値があったのだろう。
鳥羽行キハ35単行は紀勢本線「多気」で分かれ参宮線に入る.
C57が牽く混合列車が停車する多気駅.周辺はのどかな風景が展開する.1964.07.06
二見浦で降りたが海岸沿いはまだ先であった.
亀山-鳥羽間の参宮線には蒸機客列車が何本も走っていた。二見浦
鳥羽の手前で穏やかな海岸線が開ける
波静かな入江を行く準急気動車 鳥羽
6 件のコメント:
私の母のルーツが鳥羽です。何回か行きましたが、でもこのような写真は初めて見ました。良い雰囲気です。
木曽のD51
木曽のD51さん
まるで湖のような静かな鳥羽の海、こぎれいな観光旅館や風景、工場帰りの人で活気あふれる駅、私が感じた鳥羽の印象は格別のものでした。鳥羽は決して地の果てでもなく関西・名古屋の奥座敷だったのですね。母上のルーツ鳥羽はすばらしい土地ですね。
参宮線は各地から直通優等列車もあり、そしてC57の旅客列車が沿線によく似合いました。しかし今では賢島まで広軌の大私鉄が入線してしまうとあの時代の旅情はどうなってしまったのでしょうか。便利さ追求で失われるものも多いですね。
鳥羽の入江はここですね。
ストリートビュー
http://goo.gl/maps/8fjLc
1963/5撮影の航空写真
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=393807
背景の山は同じ形のまま健在でしたが、残念ながら入江は埋め立てられてしまいました。今は手前に近鉄線も通ってますね。
ストリートビューは毎度ながら古今風景の比較で役に立ちます。最近は同じ場所の2回目・3回目の撮影に回っている箇所も多いです。本日バイクで走っていたら屋根上にカメラを積んだ撮影車に遭遇。少しの間追いかけてしまいました。(^_^;)
影武者さん
ありがとうございました。
教えていただいたストリートビューと1963年航空写真を確認しました。
写真を撮ったのはズハリこの位置ですね。
現在の地図の地形から私は海岸線を走るところは二見浦寄りのもう一つの入江と思っていました。ところが写真を撮った所は埋め立てられ海岸が消滅していたんですね。今回もストリートビューで今昔比較していたのですが埋め立てで海岸線が変化しているのには気がつきませんでした。
それにしてもストリートビューで見ると全国どこの風景も似たり寄ったりになってしまったものですね。
私が伊勢志摩方面を初めて訪れたのは、まだ小学生だった頃で、鈴鹿サーキットにあるホテルに泊まり、白子駅から近鉄特急で伊勢へ。まず外宮から内宮へとお伊勢参りを済ませたあと、バスで鳥羽に向かい、島巡りの船で「真珠島」「イルカ島」を回った記憶があります。二見浦は、その帰りにやはりバスで立ち寄っています。その最寄のバス停の名が「江」という一字一音の地名で、バスの車掌さんはなぜか「えー(江)海岸」と読み上げていたことが印象に残っています。当時は近鉄鳥羽線は工事中で、志摩線も拡幅工事で運休中、鳥羽駅におそらく役目を終えたであろう小型電車が休んでいたようなにも記憶しているのですが…。鳥羽線がなかったその頃は、伊勢と鳥羽の間はバス利用がメインになっていて、本数も少ない参宮線は既に観光客から全く相手にされていなかったのでしょう。
伊豆乃国さん
東海道新幹線の開業で名古屋から伊勢志摩へのルートも近鉄主体になって行ったのではないでしょうか。
このころ観光で伊勢から先への足はバスが主体でしたか。
当時、近鉄標準軌が一気に賢島まで工事するとは思いもよりませんでした。
ひなびた伊勢志摩はそれだけ巨大観光地だったのですね。
伊勢志摩へ向かうには近鉄を使えばよいので、今のJR参宮線はどうなっているのでしょうか。
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