案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2015年1月18日日曜日

志摩線の賢島へ向かう 1

東海道新幹線が開業する直前の昭和39年夏、風光明媚な伊勢志摩を走る三重電鉄志摩線を撮りに行ったことがあった。東京から夜行に乗って早朝の名古屋に到着し、関西本線の蒸機列車に乗って亀山機関区に立ち寄り終着鳥羽に到着したときは遠い地の感じがしたものだった。

鳥羽からさらに志摩線に乗って1時間、奥の奥にある賢島まで名古屋からの所要時間は3時間半ほどであった。地の果て賢島も今では近鉄名古屋で特急に乗れば2時間ほどで到着してしまう。
長閑な時代の国鉄と志摩線を乗り継いで賢島へ向かった旅を追ってみます。


クルマがいない名古屋市内を行く12系統
早朝の名古屋市電18系統

早朝の名古屋市電3系統

C57が牽く快速鳥羽行に乗って亀山へ向かう 名古屋 1964.07.06
開業間近い新幹線ホームと蒸機列車

3か月後に東海道新幹線が開業する名古屋駅では関西本線や中央本線の蒸機が盛んに発着していた.

亀山機関区に立ち寄り有名な美しいC51225を撮る.
「亀山詣で」の風景はやはりオリンパスペンで撮ったものが多い.

紀伊半島東部は蒸機王国の時代で、遠くに見えるDF50(紀伊本線)は影が薄かった.

亀山を発車する列車.C57に牽かれる客車はダブルルーフである

4 件のコメント:

#9999 さんのコメント...

亀山行き C5723 のナンバーが変と思ってググってみたら赤ナンバーでした。
昭和30年代まではどこもかしこも煤煙でいぶし銀の様になっていて、蒸気機関車衰退以降の写真が、何となくコントラストがきつく感じるのはそのせいなのかもしれません。
この自然のコーティングが錆止めの役目を果たしていたという事をどこかで読んだ記憶があります。
40年代に入って茶色の貨車が増殖しだしたのも頷けます。


昭和30年代の広島を舞台にした「ヒロシマ・モナムール(二十四時間の情事)」という映画に、車載カメラで撮影した街の様子がふんだんに登場し、フランス人から見た日本の原風景というのもこの映画に興を添えています。
当時は道路も駅構内もすっきりして、障害物に悩まされることなく自由に撮影できたことと思います。

常夜燈 さんのコメント...

名古屋市電の最初は本町でこの
外堀通りは高速道路が出来て
様子が一変しています。2カット目は
本町~景雲橋間で2カットとも写って
いるビルは建て替えられたり解体され
残っていません。その頃の名古屋駅は
中央線のD51、関西線のC57、入替え
C11が頻繁に見られました。亀山の
C51は綺麗でした。亀山機関区跡は
何もありません。

katsu さんのコメント...

#9999さん
C5723のナンバーが変には気付きませんでした。赤ナンバーでしたか。
蒸気機関車は真っ黒く塗られた姿よりは、煤にまみれたいぶし銀の黒の方が魅力的ですね。

この頃の名古屋駅では蒸気機関車が盛んに煙を吐いていたのが信じられないくらいでした。
街中に出るといかにも名古屋で道路が広々として殺風景でした。
当時は高い建物もなく道路も駅構内もすっきりしていたはその通りでした。
そこへ東海道新幹線が開業し時代は大きく転換して行きました。
今や便利な時代になったけど旅の楽しさは昔の方が宝の山だったと思います。

katsu さんのコメント...

常夜燈さん
私にとって名古屋や市電のことは全く分かりません。
市電の写真の撮影場所ありがとうございました。
汽車が出発するまでの短時間に撮ったので名古屋駅の近くと想像していました。
名古屋の街の写真が殺風景なのは早朝のせいかもしれません。
今や高速道路やビルが立ち並び広い空の風景も一変してしまったのが想像できます。

名古屋駅のあちこちで蒸気機関車が煙を上げていた時代が夢のようですね。
初めて乗った関西本線でこれほど蒸機が活躍していたとは驚きでした。