案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2015年1月24日土曜日

志摩線の賢島へ向かう 4

鳥羽から賢島まで3'6''ゲージで走っていた三重交通志摩線は、1964年2月に三重交通から鉄道部門 北勢・三重・松坂・志摩の4線が独立会社となり三重電気鉄道㈱として新発足した。訪問したのはその直後であり翌年には近鉄志摩線となり、更に1970年4月には改軌され近鉄鳥羽線から賢島まで直通運転され、結局志摩線は近鉄標準軌に飲み込まれてしまった。

こうして目まぐるしく変貌して行った三重電鉄志摩線を常夜燈さんのローカル私鉄の今昔で拝見すると、三重交ツートンカラーが近鉄マルーン一色になった小型電車はいかめしい近鉄電車風に見え、更に改軌で何もかもが消滅してしまったようだ。

鳥羽から賢島まで素晴らしいツートンカラー(クリーム/グリーン)に塗られた小型電車が走っていた時代の光景は今では想像もつかないことでしょう。

下校時間の鵜方駅風景   1964.07.07


旧型の車体更新車 モ5210形  中間部がクロスシートになっている. 鵜方

貨物ホームに貨車が止まり混合列車も走っていた. 鵜方

ク600形+モ5400形 珍しい垂直カルダン駆動部は地元神鋼電機製 志摩神明ー賢島

ク600形+モ5400形 志摩神明ー賢島
非舗装の道路と埃まみれの草木がどこでも当たり前の時代であった。

ク600形+モニ551形 志摩神明ー賢島

モニ551形+モ5210形 船津  志摩神明ー賢島
沿線車窓風景は至って平凡で期待外れであったが荷物室付電車モニ4両の存在が魅力的であった.

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私の母は改軌に当たって近鉄から土地の提供を求められ、提供しました。懐かしい思い出です。
             木曽のD51

katsu さんのコメント...

木曽のD51さん
鳥羽の街の中心部は鳥羽駅周辺ではなく、志摩線が鳥羽を出て海沿いを急カーブした先にあるのですね。鳥羽の街並と工場や港の密集地帯を走る海沿いの風景は志摩線ベストであったと思われます。
こんな狭隘な場所を走る3’6’’ゲージ軌道をよく標準ゲージにしたものです。きっとこの辺りで土地提供があったのではないでしょうか。