相模鉄道での改造、日立電鉄での自社仕様改装、改番などで小田急時代との対比は大変厄介である。
写真にあるモハ1007~1009は戦後直ぐに相模鉄道へ譲渡された小田急デハ1163~1165で相模鉄道でモニ化され両開きドアとなった。両開きドアを除けば中学生の頃に乗った小田急デハ1100形に共通する面影がよく残っている。これら日立電鉄の旧型車は1991~1997年に東京地下鉄の真っ赤な電車に全て置き換えられてしまった。
小さな窓、前面の顔などに小田急1100形の面影がよく残っている.
相模鉄道でモニ化されて両開きドアのまま転入したモハ1007~1009(元小田急)の1両.
モハ1007(元小田急)
小田急デハ1104→日立モハ1002→日立改番1005
昭和34年まで小田急を走っていた2編成8両の内の1両.
自社仕様改装で全く小田急1100形の面影は全くない。
参考 モハ12
自社仕様改装とカラーでまるで北陸鉄道のような電車.
前歴は小田急とは関係がない.
参考: RMライブラリー 第64巻 日立電鉄の75年 ネコパブリッシング発行
4 件のコメント:
日立電鉄は、関東のはずれにあり比較的近い撮影場所ながら、あまり人気があったイメージがありません。しかし、小生的には、常磐線の重量列車、水郡線の小貨物などと撮影が組み合わせられる貴重な地方私鉄でした。この小私鉄と並行してC62が走っていたなんて、今となっては信じがたい思いがします(それを世間では歳を取ったと言うらしいですが・・・)
特に久慈浜は、もはや休車でしたが木造電車やらお写真にもある珍妙な改造電車やらの巣窟で、半日いても全く飽きることがありませんでした。おかげで、ずいぶんと車両区の方々にはお世話になったものです。その時に、ここは日立系だから当分潰れることは無いだろうが、こんな輸送効率では公共輸送体として子供達の時代には残っていないよと、恐らくは役職クラスだろう年配職員さんの言葉が深く印象に残っております。
Namikiさん
日立電鉄は旧型車が元地下鉄に置き換えられてから魅力を失ってしまったのではないでしょうか。何度も行くチャンスがあったのに一度も訪問したことがなく兄が撮った遺昨を整理してみたものです。
やたらと車両が分散して留置されていたようで、久慈浜にも巣があったのですか。写真で見ると大甕と常陸太田の留置線は判りましたが鮎川の留置線に見えたのは久慈浜かも知れません。日立電鉄と言えば神中鉄道からやってきた三角電車で、改造後の切妻電車の写真しかありませんが改造前の三角電車を見てみたかったものです。
Namikiさんが行かれた頃はどれも改造でさぞかし珍妙な電車が揃っていたことでしょう。あまり人気がなかったのが不思議です。
Katsuさん夜分にこんばんは。
神中鉄道の三角電車は、手持ちでは切妻改造後の写真しかありませんので、恐らく改造前には出会えていなかったのだと思います。とにかく、いったい何がいるのかは鉄ピクかTMS、あるいはせいぜい交博の例会以外は地方私鉄の情報などほとんど無く、まさしく行き当たりばったりの時代でありました(鉄研はガセネタの宝庫でした)。
Katsuさんのコメントの中に「元地下鉄に置きかえられて」とありますが、そういえばつい先年まで毎年の様に撮りにいったのに、そういった印象はついぞ持っていませんでした。おかしいなと思い手元の記録を見直したら、つい先年とは昭和59年が最後でした。あえてこれ以上のコメントは避けさせていただきます。ご同輩にはこの気持ち、きっとわかっていただけることと微かに期待いたす次第です。
Namikiさん
白土貞夫さんの記述に拠れば三角電車が平妻に改造されたのは昭和40年とありますから随分昔のことなのですね。
当時の地方私鉄は鉄ピクかTMSそして交博の例会以外は情報なしは全く同感で、何が走っているのか現地を訪問して初めて判る新鮮さがありましたね。
つい先年のこと、私のように年とるとそのお気持ちがよく分かります。
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