今月の9日と16日に開催された山代温泉ホテルききょう様主催の北陸鉄道加南線廃線跡見学ツアー
で案内役の山本様から廃線跡めぐりで撮られた主な駅の現状写真と解説を送って戴きました。
一昨年12月小ブログで取上げた北陸鉄道加南線 の現役時代風景と対比して撮られた写真を見ると、47年前のあの風景は変わったものの、昔のままで残る建物など驚くほど面影残す箇所が各所にあるようです。
加南線現役時代を偲んでこの位置に立ってみると、どんな想いになるのか行ってみたいものです。
モノクロ写真 1964年12月 全ての画像はクリックで拡大します カラー写真と解説 山本様 2012年3月
跡地は住宅になり、JRとの用地境に高いブロック塀ができています。
駅跡はバスターミナルになっていましたが、平成20年に路線が撤退して駐車場となっています。
路線バスは2年後に復活しましたがターミナルには入らず、道路上にバス停が設置されました。
8 件のコメント:
山代温泉は何度か訪れましたが、電車が走っていたとは全く知りませんでした。
ただ街の中心辺りを車で通ったとき、何か駅前みたいな雰囲気だなと感じた場所が有ったことを覚えています。
近くの粟津、片山津、山中温泉を結んでいたそうですが昔の交通事情からすれば必然だったのでしょうね。
toshiさん、ありがとうございます。
北陸鉄道加南線の前身は温泉電軌で、加賀温泉郷に点在していた馬車軌道を統合したそうです。
関西の奥座敷 加賀温泉郷へ温泉電軌に乗って向かう団体客の時代を見てみたかったものです。今では団体客はバスでしょうけど、それも少なくなったようですね。
加南線も、私には間に合わなかった線区でした。
父が商売仲間と山中温泉への旅行のついでに乗ったり撮ったりしているのを『大人ってズルい!』と思っていました。
Cedarさんのブログの楽しい北陸記事を読んで笑ったことがありました。
父上の加賀温泉郷行きの時代は華やかだったのでしょうね。
1964年に山中駅の看板を見ても華やかな温泉時代らしきを感じたものです。
立派だった山中駅や山代東口駅、那谷寺駅など、廃線後も比較的ながく残っていた遺構もあったのですが、みんななくなってしまい、寂しいです。
昭和50年頃(もう40年前ですか!)、バスターミナルとして残っていた山中駅には、まだ売店が鉄道時代のままで、名物の「娘娘(にゃあにゃあ)饅頭)などを売っていたと思いました。
今はただのバス乗り場でしかなくなってしまい、当時の風情はありませんね。
加南線の廃線跡は自分でも歩いてみましたが、石積みの側壁などが残っていました。ただ……
行ったのが冬場だったので、黒瀬付近の林に入った事を人に話したら、「あそこは熊がでる」と聞かされ、後で青くなりました。 無知・無謀は怖いですね…。
esehokuさん
そうでしか、今では加南線の遺構もみなんな無くなってしまいましたか。
ほんとうに寂しいですね。
山中、山代温泉は加南線が栄えたころがよき時代だったのでしょう。
関西の奥座敷としてとても華やかな温泉だったことをよく聞きました。
今はJRで下車しバスで温泉へ向かうのでは何もかもが風情を失ってしまったのでしょうね。
加南線の温泉電車がいかに素晴らしい存在であったかを改めて想います。
katsu様
コメントに対して御丁寧なレスをありがとうございます。
ところで、画像でずっと気になっていたのですが、1813のパンタ側(山代側)は、なんかすごく不細工なカオになっているのは何故なのでしょうか?
1813といえば、正面左右の窓がHゴム改造されて、しかもその高さが左右で違っていたのが思い出されます。
画像のそれは多分に改造前の姿なのでしょうが、例えが悪いですが、ブ◯が整形失敗したみたいで…(1813の名誉のためにフォローしますが、性格はとても良い子で…(;^_^A)
1813は、加南線廃止後ほんの数年でしたが、山代駅跡近くで「一番電車」という名で食堂になって残っていました。
esehokuさん
改めて山代線の1813パンタ側を見てみました。
大聖寺川を渡る、山代駅に到着する道路脇などの画像で以前から違いを感じていましたが
それは型式の違いと思っていました。
河南で見た美しい温泉電軌1812に比べると同形なのにまるで別物のように見えますね。
全面の顔に雨樋からあふれた雨跡(さび跡)が2本はっきりと残っているせいではないでしょうか。
よく清掃していれば1812のような美人だったと思います。
それにしても、1812の美しさには惚れぼれしてしまいます。
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