案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2011年2月21日月曜日

松尾鉱山のこと

先日、昨年6月16日アップの松尾鉱業鉄道「栄枯盛衰 松尾鉱山(続)」に興味深いコメントを戴きました。
松尾鉱業鉄道の終点東八幡平からさらに山の上にある松尾鉱山と鉱山町。
その鉱山町に小学校4年生の頃まで住んでいた方からです。

この終着駅から松尾鉱山の町まで、バスに乗ってかなり時間が掛ったそうです。
この写真を撮った1966(S41)年、この方は小学生で「雲上の楽園」と言われた鉱山町に住んでいた頃。
「雲上の楽園」の住まいのこと、閉山後廃墟となった鉱山町のこと等について書かれています。

更にこの上の鉱山町から見る岩手山はどんな風景であったのだろうか。

東八幡平の構内と背後の風景

'10年6月16日「栄枯盛衰 松尾鉱山(続)」のコメント投稿欄より

コメント1
過去、小さい頃まで松尾鉱山に住んでいたものです。
(小学校4年まで)やっとの事であの鉱山鉄道の写真を発見できました。
盛岡の祖母を訪ねるために、必ず利用したこの鉄道と駅舎、そして構内は今でも記憶に鮮明に残っています。鉱山に帰るのに、当時は花輪線の大更で乗り換えて、そして、この東八幡平駅でバスに乗り換えてと随分と時間がかかりました。
今は自家用車で気軽に行き帰りができる距離です。
今は全部取り壊されて、跡形も残っていませんのでとっても貴重な写真でありがとうございます。
閉山後、10年後に友達と遊びに行ったときは駅は貨物車、電車等がそのまま放置されて、雑草に埋もれていていたのをよく覚えています。


コメント2
丁寧なご返事ありがとうございます。
私が小学生の頃は1966-1969年でしたから、もう閉山が目の前でよく語り継がれている戦後から1960年頃の絶頂期とは程遠い衰退時期であったのでしょう。ですから、鉱山鉄道が人で混んでいたという印象は全くありませんでした。
鉱山のガラガラの誰もいない精錬の施設で使われないで置かれていた、トロッコでよく、友達と遊んだのを覚えてます。
私は当時、鉄筋コンクリートの水洗トイレ、スチーム暖房完備のアパートに住んでいました。とっても恵まれていたんですね。
毎年、何度も父と訪れますが、当時と比べて、植物が回帰してきたのか考えられないくらい草がぼうぼうと生えているのは驚きです。でもそれくらい、鉱山の排煙はひどかったということなのでしょうね。
もう鉱山鉄道の当時の写真を見るのは不可能なのかと探していたら、こんな貴重な写真の数々。
本当にありがとうございます。

7 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

はじめまして
貴ブログを初めて拝見
丁寧に撮ってみえますね
私も松尾鉱山へは花輪線の86と
兼ねて出掛けましたが車両中心の
写真ばかりです。雄大な風景
土の匂いがしそうな写真!
今後も期待しています。

Cedar さんのコメント...

なんだか日本じゃないみたいな風景ですね。アメリカ、モンタナ州の電化鉄道の写真を見た時と同じ気分になりました・・・この鉄道は非電化の花輪線から突然電化線が分かれるのが不思議でした。それにしてもこの風景は凄い!

katsu さんのコメント...

匿名さん
コメントありがとうございました。
私も松尾鉱業鉄道訪問の後、花輪線の86を撮りに竜ケ森に向かいました。
まだ国鉄も面白い時代で、この一帯は景色と鉄道が素晴らしく充実した一日でした。
今思えば、松尾鉱山の事を何も知らずに訪問したのがとても残念です。東八幡平にもっと長く滞在していろんな場面を撮っておくべきでした。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
地方私鉄でこの鉄道は特異であったと思います。なるほど、モンタナ州の電化鉄道でしたか。
大自然の中の電化鉄道は、花輪線とは違った魅力が溢れていました。でも話題が少ない鉄道でしたね。

匿名 さんのコメント...

鉱山鉄道ですので雰囲気は北海道の
鉄道に近かったか?写されたのは旧阪和が
入る直前ですね。貴重な映像と思います。
私が訪れたのは昭和43年で旧阪和が
いました。近日中にUPしますので
出来ればリンクさせて下さい。

katsu さんのコメント...

匿名さん
旧阪和がこの線で走った事は、後になって知りとても興味深いものがあります。是非リンクさせて下さい。

匿名 さんのコメント...

松尾鉱業を拙作HPにUPしました。
鉄ピク誌「私鉄車両めぐり」分冊の様に
貴ブログがグラビアページで拙作HPが
本文貼り付け写真のようになりました。
次回は福島交通軌道線を予定しています。