案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年5月30日水曜日

浅野川線 金沢風景3 内灘

内灘から粟ヶ崎海岸へ延びるカーブにいた2両の2軸客車。台車からすると元々トレーラだったのでしょう。ボギー車だけでなくこんな車両までいたのがこの時代の北陸鉄道の魅力です。

以前に頂戴したコメント
モハ573は撮影当時、すでに電機代わりに使われていたようですが、僕が両親に連れられて遥遥、福井から内灘に海水浴に訪れた時、乗った電車のポール集電器の印象が深く、今でも覚えているので、もしかしたら当時は立派に旅客電車として走っていたのではないでしょうか、地元の方の投稿を待ちます。

僕が内灘に行ったのは小学3年の夏でした。因みに、1953(昭和28)年のことです。
北鉄の駅の雑踏の中で菊の花の氷柱が涼しげでした。
福井のやすしです。

撮影:1964.12.31 
 サハ221 内灘

サハ211 内灘
コメントにあった1953年頃、モハ573がこんな客車を牽いて粟ヶ崎海岸まで海水浴客を運んでいたことを想像してしまう。

北鉄金沢の貨物線で働いていた モハ573 北鉄金沢

左にカーブして粟ヶ崎海岸へ延びる休止中の線路、島式ホーム、駅舎と内灘駅の全体が分かる1枚。
余りに殺風景な終点で、私はここが行き止まりの粟ヶ崎海岸駅と思ってしまった。
この時代に左に伸びていた線路は海水浴シーズンに海岸まで走っていたかも知れない。寂しいこの内灘駅は少し前まで貨物駅であったことを全く知らなかった。

左手の海へ向かうカーブにはもう一つのホームがあった。 内灘

内灘駅

私のコメントから
訪問時(1964年)は内灘~粟ヶ崎海岸は休止中で線路は残っていて1974年に廃止されたようです。鉄ピク216号私鉄車両めぐりに紹介されたようで、海水浴場までの経路が記録されています。

現在の地図に照合してみるとなんとなく軌道跡が推定できます。
何とGoogle地図に粟ヶ崎海岸駅跡が表示されていました。
そこは海が目の前、小さな電車が内灘の海水浴場まで通っていたのですね。
10年程前、この内灘の海岸を確認に行ったら海岸道路が走る実に殺風景なところでした。


11 件のコメント:

黒ユリ さんのコメント...

ついこの間帰省した時に見た内灘駅の往年の姿を見て、子供の頃を思い出しました。
田舎の人の常であるように、子供の頃、日本全国の大きな駅を結ぶ鉄道を走るものは、何でも「汽車」と呼んでいました。
「電車」というのは、浅野川線とか、金沢市内を走っている路面電車のこと。
では「雷鳥」とか「しらさぎ」は何という?
きっと路面電車より複雑な構造だろうから、「電気機関車」と呼ぶのだろう、と単純に考えていました。

C edar さんのコメント...

Cedarが初めて浅野川線に乗ったのは昭和46〜7年で、五木寛之の「内灘夫人」や演習場問題などで内灘ってどんなところかなと興味が湧きました。栗が崎の鉄橋で鯨川や中越地鉄そっくり(爆)な電車撮影しました。

esehoku さんのコメント...

画像4枚目、なるほど、粟ヶ崎海岸方面への線路が続いているのが見て取れますね。
車庫の裏側、後に留置線となる辺りでしょうか?
それにしても、この頃の内灘はバックに何にもなかったようですね。今は住宅が立ち並んでいて、線路が延びていた頃の面影はありません。

しかし内灘駅、まるで掘っ立て小屋みたいですねー。大概は古いモノを喜ぶ私ですが、こと内灘駅に関しては今の方が良いかなぁと思います。

代打・山本 さんのコメント...

コメントを寄せられた福井のやすし様が乗車された昭和28年当時に在籍した旅客用車両は次のとおりです。
電動車
(ボギー車)モハ1601,モハ1803
(単車)モハ571,572,573
付随車
(ボギー車)サハ606
(単車)サハ211,221

翌年以降に元伊那電の買収国電モハ851,852,3101,3102が富山港線から払い下げられて来ますが、最大で3万人以上に達した海水浴客を上記の8両で捌くのは無理で、夏季には石川総線や加南線から応援部隊が駆けつけていました。やすし様が乗車されたのも、もしかすると金沢電気軌道や温泉電軌の車両だったのかもしれません。

京葉帝都 さんのコメント...

当時の内灘駅とその先は砂地の荒涼とした風景が魅力的だったのですね。父は「昔、海岸でグライダーを飛ばしていた。」と言っていたので、元々軍の匂いのするエリアだったかと思います。昭和40年代後半に海水浴に行くために浅野川線を利用したことがありました。さすがに2軸車は見ませんでしたが。内灘からはバスでした。この路線は、現在は内灘からのバス路線との連携で生き残っている感じがします。

katsu さんのコメント...

京葉帝都さん
昨日、古老から聴いてきましたが、
この海岸は元々軍のエリアだったはその通りでした。
元々陸軍の試射場に使われていて、
戦後 昭和25頃からそこに目をつけた米軍がまた施設を数年間使い始めたそうです。

それから何十年、昭和40年代後半は内灘から先へ向かう季節列車はとっくに走っていなかったのでしょう。

katsu さんのコメント...

黒ユリさん
松本清張は小説「ゼロの焦点」の中で羽咋から出てくる
北陸鉄道能登線の気動車を小さな電車と表現していました。
これを間違えていると指摘するヤボな人はいないでしょう。
昔の長距離列車も汽車で何も違和感は無かったと思います。

esehoku さんのコメント...

katsu様

ワタシはその「ヤボな人」の1人かもしれませんが、周りの、何でも「電車」と言う人達に「気動車」を説明する時の歯痒さと言ったら…
今は「汽車」もありませんし、第一、「機関車」が牽引する「列車」の説明に困ります…(専ら、ウチの家内を含む女性一般)。

喩えが飛躍しますが、義務教育の9年間に、校内放送であれだけクラシックの曲が流れているのに、あれがひとっっっっっっっつも印象に残っていない人がいるのと同じかもしれないですね…(笑)。

決して蔑んだ意味で言っているわけではないんですが、日常の中で、「気にする物、気にもとめずにいるものは 人それぞれ」というしかありません。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
気にもとめないものは何でも「十把一絡げ」でよいのでは。
鉄道趣味は、気にもとめない人からよく「SLファン」ですね、今は「撮り鉄」ですねと言われる。
はいそうですと答える。詳しくジャンルなどを説明するのはヤボな人。

西宮後 さんのコメント...

現在の住宅街の内灘駅からは想像もできない姿ですね。
浅野川の堤防下を電車が行く姿は今も雰囲気が残ってますがここも宅地化で田園風景は消えつつあります。
今では当時の車両は鬼籍に入ってしまいましたが石川県立歴史博物館の展示に浅野川電鉄デハ2…後の北鉄モハ1601の車内を実物大で再現した展示がありました。
戸袋の丸窓も再現されてリアルでしたが窓外の景色は高台から海を見下ろす型になっており海に直交する現実の線形からは有り得なそうな車窓風景になっていました。
こちらは恐らく展示の雰囲気重視で製作されたのでしょうね。

katsu さんのコメント...

西宮後さん
元浅野川線の電車1601、私は見たことがありませんが写真で見たのを思い出しました。
そして金石線時代の1601を撮った友人の写真も思い出しました。
大変興味深い電車で、本日ブログにアップしてみました。