案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2025年9月1日月曜日

西大寺鉄道の単端

西大寺 会陽(はだか祭)の日に車両総動員された4編成。 滅多に動かないバケモノ単端キハ10(最下段の先頭)も動員された。1962(昭37)年廃線

昨年秋の講演が本「軽便讃歌13」になって9月末の軽便祭で発売されます。





2025年8月23日土曜日

京都市電 電停近衛通

1969年の京都市電。背後に京大吉田寮が写る写真を提供したところ「京大吉田寮百年物語」が送られてきました。大変立派な百年物語です。
 


 背後に京大吉田寮の建物.電停近衛通.1969.1.2

京大吉田寮百年物語.

2025年8月17日日曜日

多摩湖線 一橋学園

 


夕暮れ時の一橋学園駅.2010年1月

今日はこの画像を探すのに大変に時間が掛かった。2010年はブログを始めた頃で多摩湖線ブログのタイトル画にしたことがある。コンデジではなくマイクロフォーサーズで撮っていた時代で、あれから早や15年が過ぎた。
50年60年前のフィルムカメラ画像は路線名と年代で瞬時に出てくるのに、デジカメ画像は路線ごとに纏めていないので、日付だけが頼りとなる。
今回も日付が分らなかった。

ホッとする駅。
夕暮れが迫ると、静かな駅にふたたび人の流れが戻ってくる。
電車を降り、構内の踏切を渡って改札を出ると、すぐそこに商店街の灯りが待っている。
一日の仕事を終え、家路へと向かう安らぎの時間がある駅。
西武多摩湖線 一橋学園駅 2010年1月




2025年8月16日土曜日

夏の淡路 宇山

淡路交通 宇山駅 1965.8.2

電車は洲本駅を発つと、ガタガタと民家の裏手をかすめるように走り、洲本川を渡り左へカーブするとほどなく宇山駅に到着した。
 
駅長にお断りして構内へ足を踏み入れる。真夏の陽射しに照らされて線路上には垂直カルダン車など様々な異色車両が休んでいた。

駅の待合室の壁には、島まつり案内や、淡路交通労働組合の「ご利用のみなさんへ」迫りくる廃線に関する紙面が貼られていた。

ちょうどこの日は洲本の島まつりで花火大会や盆踊りがある。洲本行のホームでは子ども連れの家族が電車を待っている。きっと洲本の島まつりへ向かうのだろう。笑い声と東京にはいない喧しいセミの鳴き声が混ざり合い、空気は夏一色に染まっている。

ホームのひび割れた壁の向こうは車両工場だ。開け放たれた窓の奥では、さまざまな車両が改造や整備を受け、部品が並んだ風景はまるで模型を組み立てているかのようであった。

作業の合間、工場の人によく冷えた麦茶を飲ませてもらった。ひと口、喉を通ると、全身に涼しさが広がる。短いお礼の言葉を告げ、駅を後にした。真上では入道雲が、海から吹き上げる風にゆっくりと形を変えていた。


RMライブラリー267巻 淡路交通(上)に、この掲示「御利用のみなさんへ」が掲載されている。

洲本行の電車.

塗り壁が剥がれた宇山駅ホームと駅名表示.ホーム一つにも、かつては当たり前のように漂っていた情緒があった.


ホームの壁の向こうは車両工場.


2025年7月16日水曜日

北勢線 西桑名駅 あれから60年


カラー撮影:2025.7.16

近鉄、JRと並ぶナロー北勢線の線路.桑名
三交カラーで今も活躍している旧200系3連+モハ.

200系の美しい原形 モ202+サ+モ201.1965.8.5
1971年に電装解除された


西桑名駅. 1965.8.5


西桑名駅構内.1965.8.5


現在の西桑名駅の朝.2025.7.16


ナローとしては立派なレール.西桑名駅


立派な40kgレール。枕木の長さが違うのはナロー用と3'6''用が混ざっているのでしょう.



西桑名駅.


終点 阿下喜の風景.


9時過ぎた日中の阿下喜発は1時間に1本しかない.


2025年7月14日月曜日

鉄道が消えた跡の深さ

先日、facebookに投稿した記事より

ー仙北鉄道 築館線の残照ー

鉄道が動いていた時代のこと以上に、鉄道が消えた後の線路の風景には深さがある。

そんなことに気づいたのは、撮影したずっと後のことだった。昔、鉄道写真といえば「列車ありき」で、車両がいない写真には興味がなく、ましてや廃線跡となると、“もう終わった鉄道”という認識しかなく撮りに行くこともなかった。

この写真はその頃に撮った一枚。仙北鉄道 築館線の廃線跡。当時私は何の感慨もなくシャッターを押したのは「記録として残すだけ」の感覚だった。ところが後になって見ると、妙に心に残る。

この線路の向こうにあった、かつての暮らしの気配。駅に集った人々の声。行き交う小さな2軸ガソリンカーのエンジン音。 それらが消えて久しいのに、ここには「何か」が残っている。
鉄道が消えた後の線路の風景は、私たちに鉄道が活躍していた時代の光景を想像させてくれる。


瀬峰から延びる1950年に消えた築館線のナロー廃線跡。
撮影:1964年8月

築館線の現役時代はこの小さな2軸ガソリンカーが走っていた。廃車になって瀬峰の車庫の奥にいた昭和9年日車製ハフ407 (元キハ3)

2025年7月10日木曜日

小坂鉄道 軽便の面影は消えていた大館駅

 

花岡行と小坂行の発車案内が表示された大館駅. 1966.03.0





栃尾線に転じたホハ30 (元小坂鉄道のハ10)。 同時に栃尾へやって来た他の5両とは外観が異なる。 栃尾鉄道 悠久山 1964.3.22

昭和41年早春、奥羽本線の大館駅に降り立った。雪の残るホームには、ありふれたキハと機関車が発着を繰り返していた。かつて鉱山を結んで走った小坂鉄道も、今やナローゲージの面影を失い、1067mmへと改軌されていた。改軌は昭和37年10月のこと。乗車券には「同和鉱業小坂鉄道線」と記されていた。

大館からは小坂線と支線の花岡線が分岐していたが、構内の風景はどこか味気なかった。軽便鉄道らしい車両や線路の表情は、もうそこにはなかった。

書物によると小坂のナロー時代は、軽便とは思えぬほど重厚で威風堂々としていた。その時代の客車をこの数年前に越後交通栃尾線で見たことがある。今、改めてその写真を見ると、冬景色の大館駅が思い出された。

ナローが改軌されても、車両が変わっても、あの大館駅の小坂鉄道には時代を越える風格があった気がする。

2025年6月9日月曜日

真夏の金平

タイトルバックを変えました。
この写真は尾小屋行列車の2軸客車オープンデッキから撮った金平です。今日の鹿部電鉄さんのコメントにあったように確かに線路がヨレヨレナローではなく立派に見えます。草が生えていない。



金平 1962.8.1


この写真から十年後、静かな金平駅にも変化の波が押し寄せていた。1970年代初頭、ディスカバー・ジャパンの旅ブームとSLブームが重なり、鉄道は再発見の対象となった。ナローゲージの趣味の世界に目覚めた高校生や大学生たちが、カメラ片手にこの地にも足を運んだという。

木造の小屋と給水塔、軌道に沿った田の広がり──そんな風景に、彼らはどこか懐かしさと夢を重ねていたのだろう。鉄道写真、ナロー鉄道模型、そして音楽──多くの若者が自分の居場所を探し続けた、1970年代初頭はそんな趣味の大転換期だった。


2025年6月6日金曜日

西武鉄道 西武園線

西武園線沿線に菖蒲が咲く季節.

 2025.6.4


菖蒲は来週初め頃が全盛期になるようだ.

北山公園の菖蒲苑






東村山駅 西武園線


東村山駅 国分寺線


2025年6月1日日曜日

宇都宮ライトレール

初めて乗ったLRTは新鮮で刺激的であった。
乗心地(振動)、静粛性、スムーズな走行と加速にこれまでの路面電車のイメージが消えた。線路を見ればまるで高速鉄道のような立派なレールと道床。
JRで宇都宮へ来てLRTを利用する客にとって乗換えと買物の動線が実によく出来ていて、宇都宮へ来たら外せない宇都宮餃子のお薦め店へスムーズに行けた。
今回は飛山城跡までの試乗だったが、7月にはゆっくり訪問する予定。


自然豊かな飛山城跡駅の周辺.2025.5.30





平日午後の列車は5本/1時間もあり待たずに乗れてとても便利.飛山城跡駅



宇都宮と言えば餃子とLRT.


2025年5月29日木曜日

みりんの流山


馬橋駅 2025.5.28


62年振りに馬橋から流山電鉄(現流鉄流山線)に乗って今の流山駅見て来ました。

当時、流山駅の一端にあった貨物駅から野田醤油醸造㈱(現流山キッコーマン㈱)のみりん工場に貨物線が延びていた。


62年前の流山駅前に貨物線の端が見える。 1963.3.31

現在の流山駅


カーブしてみりん工場へ延びる貨物線の痕跡。


流山駅の貨物駅から延びる引き込み線 1964.4.23  撮影:田辺多知夫
流山駅の一端に貨物駅とみりん工場の引込線み線があった。小型木造貨車ワフ31が消えた翌1966年に引込み線が撤去された。この写真を撮った時のみりん工場は野田醤油醸造㈱であった。




春の田園風景を行く混合列車モハ100形+ワ11。1964.4.23  撮影:田辺多知夫
みりん輸送に使われたと思われる小型木造貨車ワ11(1964年10月廃車)とワフ31(1965年10月廃車)はこの写真の直後に廃車となった。

流山駅の貨物ホームにいた美しい貨車ワフ31。ここのポイントから右方向にみりん工場まで貨物線が延びていた。流山 1962.3.31


白みりんミュージアム


一茶双樹記念館


赤城神社

2025年5月26日月曜日

寂れた七窪駅



庄内砂丘の中にひっそり佇む現役時代の七窪駅.1966.2.28


寂れた駅と言えばまず思い浮かぶのは、庄内砂丘の中にぽつんとあった庄内交通七窪駅の風景だった。 ここはまだ列車が走っていた時代の記録だが、列車が去った構内には人影もなく、潮風に晒された駅は静まり返っていた。いわば“現役鉄道の寂しさ”が漂っていた駅だ。

当時の私は、列車が写っていない写真にあまり関心がなかった。ましてや廃線跡などは、自分にとっては“終わった場所”にしか見えなかった。だから、こうした寂れた駅の写真も、当時の私にはただの一枚にすぎなかった。

ところが今では、廃線跡や廃駅を撮る“廃墟写真”という分野が市民権を得ている。鉄道が廃止になったあとの風景にこそ、賑わいがあった時代を想像する物語があるという。現役時代の痕跡を辿り、その余韻をデジタル画像で浮かび上がらせる試み。それが今の写真表現の一つになっている。

確かに、現代のデジタル処理は目を見張るものがある。色の演出、コントラストの妙、空気感の操作── もし60年前の七窪駅を今の技術で再現したなら、この風景はどんなふうに蘇るのだろうか。
潮風に揺れる防風林、枯草、木造駅舎の風化した壁、かすかに感じる生活感。 そんな細部に七窪駅にかつて刻まれていた時代のことを、今だったらもっと深く捉えられた気がする。

そして、鉄道が“動いていた”こと以上に、鉄道が“消えた跡”の深さを知ったのは、つい最近である。



七窪駅の引込線に使われなくなった客車が休む.七窪駅の片隅.


先日、出版された凄い廃線写真集.