1963年5月、横浜市電を撮る前に横浜高島町の高島駅(貨物)の一角にあった横浜機関区を訪問してみた。横浜~桜木町間の高架を行く東横線を挟んで横浜市電の反対側に横浜機関区があり、扇形機関庫の中にC56が3両休み、外には火を入れたC56が1両が待機していた。庫内のC56の2両は休車であった。
関係者の話では年内には蒸機は消えDD13に切り替わるとのことで、大変な数のDD13が入線していた。横浜機関区の蒸機が最後を迎えた1963年5月のことであった。

以下は撮影:田辺多知夫氏

2015年8月31日のブログを一部編集して再掲載します。
前回の記事 「日本人が初めてみた蒸気機関車(模型)1」
松代の真田宝物館は屋代線松代駅跡のすぐ近くでした。
宝物館訪問の目的は、嘉永7年(1854年)に横浜に陸揚げされた蒸気車模型を見た絵師が自分の目で書き写した写生絵図が2年前に初めて真田宝物館に寄託されたので、写生絵図とその後の関係を確認することでした。以下は真田宝物館で確認できたことです。
撮影:田辺多知夫 1963.7.19
昨日変更したタイトルの写真です。
写真集「地方私鉄1960年代の回想」の下津井電鉄で使った1シーンの次の1コマです。
1963年夏の銚子電鉄、海辺の終着駅外川に下りるとこんな名所案内が掲示されていた。
長崎海水浴場は今もあるが犬若海水浴場とは一体どこにあったのか?
花巻電鉄軌道線 1915(大正4)年9月 西公園~松原間の運転開始
その後、1925年過ぎに西鉛温泉まで開業。
宮澤賢治のこと
1896(明治29)~1933(昭和8)年
1914年(18才)盛岡高等農学校入学
1917年(21才) 肋膜炎を患う。童話を書き始める。
農業の改良研究、法華経、科学と宗教に目覚める。
1919年(23才)に卒業し24才に家出をして東京へ出たが妹が亡くなり花巻へ帰る。
1921~1926年(25才~29才) 花巻農学校教職を4年間やって辞める。
銀河鉄道の夜を書く初稿1924年/出版1934年。
農民となり童話や詩を書く。
羅須地人協会を設立。
農業の改良、肥料の研究などの活動を社会主義と勘違いされる。
病床につき死を考える。
1932年 35才東京で倒れて遺書を書き実家で2年療養。
1933年9月 37才で亡くなる。
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本日発売のTMS3月号 連載第33回は長崎電軌 大浦支線です。
1967(昭和42)年にまだ残っていた長崎の古い街並みを取上げ「大浦川沿いの電車通り」をテーマとしました。 撮影:1967.03.02