案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2025年5月29日木曜日

みりんの流山


馬橋駅 2025.5.28


62年振りに馬橋から流山電鉄(現流鉄流山線)に乗って今の流山駅見て来ました。

当時、流山駅の一端にあった貨物駅から野田醤油醸造㈱(現流山キッコーマン㈱)のみりん工場に貨物線が延びていた。


62年前の流山駅前に貨物線の端が見える。 1963.3.31

現在の流山駅


カーブしてみりん工場へ延びる貨物線の痕跡。


流山駅の貨物駅から延びる引き込み線 1964.4.23  撮影:田辺多知夫
流山駅の一端に貨物駅とみりん工場の引込線み線があった。小型木造貨車ワフ31が消えた翌1966年に引込み線が撤去された。この写真を撮った時のみりん工場は野田醤油醸造㈱であった。




春の田園風景を行く混合列車モハ100形+ワ11。1964.4.23  撮影:田辺多知夫
みりん輸送に使われたと思われる小型木造貨車ワ11(1964年10月廃車)とワフ31(1965年10月廃車)はこの写真の直後に廃車となった。

流山駅の貨物ホームにいた美しい貨車ワフ31。ここのポイントから右方向にみりん工場まで貨物線が延びていた。流山 1962.3.31


白みりんミュージアム


一茶双樹記念館


赤城神社

4 件のコメント:

伊豆之国 さんのコメント...

私が流山を訪れたのは、昭和から平成へと移り変わる頃、社用で何度かありました。いずれも流鉄線に乗って馬橋から流山駅まで往復で、当時の車両は西武から来た湘南顔の吊り掛け車の3連が主力で、今と同様に編成ごとに色や模様が違い、愛称もつけられていました。加速時の独特のモーター音は今も印象に残っています。流山駅の駅舎はいかにも昭和のローカル私鉄の終点といったたたずまいで、駅前にはバスターミナルもこれといった商店街もなく、これがその当時人口13万人に達していた流山市の玄関の駅だというのが信じられないような寂しさだったのに驚愕したものでした。帰りに駅の近くをぶらぶらして横町に入ると、新選組・近藤勇の陣屋跡があったのを覚えています。
流鉄線は、常磐線のルートから外されて衰退していた当時の流山町民が、特産の味醂の輸送も目的として、常磐線につなげる軽便鉄道として建設されたのがルーツとされています。流山市は、つくばEXPの開業によって、東京のベッドタウンとして更なる飛躍的な発展を遂げ、人気の住宅地になり、今や人口も20万人を超えるほどに激増しましたが、単線で鈍行しか止まらない駅が起点の流鉄線は都心に直通するつくばEXPに客を奪われ、車両も全て2連、運転本数も減っているようですが、それでもまだ常磐・千代田線方面への利用者には根強い需要があるのでしょうか。流山市の玄関の駅は、大規模ショッピング施設も林立する、つくばEXPと東武野田線が交わる「おおたかの森」がその地位を確立したといった感じで、利用客数は流山駅の20倍もの大差になっているようです。写真を見る限り、流山駅も馬橋駅も、私が訪れた頃とほとんど変わっていないように見受けられます。

Cedar さんのコメント...

昔の流山構内の写真が手元にあります、掲載のお写真とほぼ同時期のようで、構内の気動車のダルマも撮影されてます、私は行った記憶が無かったのですが、亡父が弟を連れて出かけたときの写真だと判明しました、流山駅前から野田までバスで行き、野田市内の父の思い出のある建物を見て、東武清水公園か浅草に戻ったとか。すべてが変わっている中で流山の駅舎は昔のものですね。

katsu さんのコメント...

伊豆之国さん
流鉄線の流山駅は流山市の玄関だったのが、2005年つくばEXの開通で流山駅は市の玄関でなくなってしまった感じですね。
流山駅を降りて巡る流山本町は 歴史遺産が多いみりんの町で静かで見どころ多い地域。ここは同じ流山でもつくばEXの「流山おおたかの森」とは正反対で二つの流山がある感じがします。
流山本町はよく整備されていて観光化に力を入れて来たようですが、アクセスの流鉄線との一体化が全く感じられず、
観光客も殆ど見受けられなかったのが気になるところでした。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
今の流鉄は東京通勤圏で通勤客はそこそこあると思われ、後はつくばEXとは正反対のレトロなみりん路線が売りだと思います。