そして、この3ヶ月後の12月末に私は能登線、石川線を除く北陸鉄道各路線を一気に駆け巡りました。その後、市内線、金石線、加南線各線が廃線になり、しばらく経って能登線、能美線、小松線が廃線となった。
撮影:田辺多知夫 1964.10.05
単行の準急白山下行モハ1501 鶴来
モハ3004
小松線モハ551→石川線EB111 新西金沢
山中線の前身である山中電軌が山中 - 大聖寺間の電化に合わせて1912年に新製したデハ2を出自とし、1929年に車体を新製、一斉改番を経て1951年に小松線へ転入したが、1956年には石川線に転出して事業用車となった。(wikipedia)
12 件のコメント:
車庫もあった当時の西金沢駅は結構広かったのですね。
去年立ち寄った時はただの交換駅になってしまっていて素っ気なくなっていてガッカリしました。
chitetsuさん
当時、鶴来に大きな工場があったのに西金沢にも車庫がありました。
現在の西金沢はただの交換駅ですか、車庫・工場は鶴来に一本化しているのでしょう。
石川線もとっくの昔に何もかもが整理されてスッキリした路線になってしまったようですね。
昔の北陸鉄道の楽しさはもうありませんね。
シリーズ5回目ですね。
いや〜、とにかく懐かしいです。
確かに、例えば3201+1001なんて編成美もいいところで…。
この時期で「何だこれは」度が薄れているという事は…。
これ以前の北鉄の時代に行ってみたいです(タイムマシンで^_^)
esehokuさん
このシリーズも5回目であとは野町~白菊町の一角の地図で終了予定です。
3201+1001の写真でクハ1001を外しましたが元に戻しました。
この頃の北陸鉄道各線には3000番台の車種が実に様々で胃が痛くなりそうです。
今回の昭和39年末は東京オリンピック開催された時で北陸鉄道の変貌も、
やはり東京オリンピックあたりが境であったような気がします。
木造車ぽいデザインのモハ3152に惹かれるものがありますね。
ダブルルーフの一段窓、中央が狭い妻窓など・・・
今回の私の「何だこれは!」トップはモハ1501です。
嬉しくなる様な異様さは、このまま軌道線を走っても違和感がないかも。
野村さん
石川線のモハ3152、3151このタイプは浅野川線や能見線でも見たことがあります。
北陸鉄道のあちこちで活躍していたようです。
昔の電車のこうい造形は必要性性があってカタチが決められたと思います。
そこに電車のの機能美が出てくると思います。
新幹線を除くと現在のデザイン優先では機能美なんて無視でしょうね。
今回も貴重な画像ばかりで、まさに眼福の一言に尽きます。
1・2枚目のモハ1501は、同形4両のうち1502と1504がこの時点で既にモハ3020形に改造されており、1501と1503は41年にサハ1000形をモハ3730形に改造する際に電装品と台車を供出してサハ代用になり、その翌年に廃車されていますが、真新しい塗装からは晩年の寂しい姿は想像もできません。
4・5枚目でモハ3004と連結しているのは、温泉電軌出身のモハ1816が1832を経て38年に制御車化されたクハ1201で、非運転台側の乗務員扉がない点で特定できます。39年中に浅野川線へ異動しているため、石川総線の在籍期間は1年余りでしかありませんでした。
モハ3000形の石川総線から金石線への異動は5両一斉ではなくバラバラに行われており、6・7枚目のモハ3201+クハ1001や8枚目のモハ3700形に追われる形になりましたが、追う者と追われる者が共存する時期の記録としても貴重です。特に8枚目のモハ3700形の手前の1両はまだ車体標記が入っておらず、営業運転を開始する直前だったのでしょう。
#9999さん
「何だこれは!」 のトップは石川線鶴来にいたモハ1501でしたか。
私もこの写真を見たときに「何だこれは!」の衝撃がありました。
私が石川線で最も衝撃的だったのは野町にいたくたびれた電車1504でした。
このボロ電は鶴来にいた1501と同形だったのですね。
この電車は1501~1504がいて、この写真のすぐ後に1504が車体新製されたり、
残った1501も数年後に廃車でこの異様な姿はまもなく消滅してしまったようです。
代打・山本さん
改造前の1501~1504は石川線の最高傑作(趣味的に)ではないでしょうか。
これまで石川線でイメージされる電車とはかなり異なっていると思います。
昭和38と39年に1504と1501の最後の姿を写真に撮れたのはラッキーなことでした。
モハ3004の相棒クハが何か分かりませんでしたがクハ1201でしたか判明して助かりました。
最後に小松線へ集結したモハ3000形5両は最新鋭かと思いきや、
こうして見ると随分くたびれた電車だったのですね。
金石線へ移籍してきた3000形は5を除いて薄汚い古ぼけた電車でした。
小松線の廃線1986(昭61)年までよくこんな電車が使用されたものです。
全長が短いのが小松線向きだったのでしょう。
現存の2路線だけになって久しい北陸鉄道は、そのいずれも加賀地方を訪れる観光客には使いづらく縁遠そうな路線で、その北鉄に初めて乗ったのは、今から14年前の石川線。新西金沢から当時の終点・加賀一宮まで乗り、全国の白山神社の総本家・白山ひめ神社にお参りしています。
新西金沢駅は、JR西金沢駅の目の前なのに、乗り降りする客もまばら、駅舎も無人になっていて、寂れた感じが色濃く、JR駅前からの広い道路を横断する踏切がやけに印象に残っていたように思えました。車両も既に元東横線の7000系一色になっていて、懐かしい電車に出会った感慨こそあったものの、車両自体の魅力も地方私鉄独特の雰囲気も全く消えうせてしまっていたのでした。
廃線となった石川線の末端部、鶴来~加賀一宮間は、初詣のとき以外はもう空気輸送同然らしかったようでした。小さいながらも風情があった加賀一宮の駅舎は、今もまだ残っているのでしょうか。
伊豆之国さん
14年前の石川線はそれほどまでに寂れていたのですか。
昔は石川総線として北陸鉄道の本線のようなイメージを私は持っていました。
14年経った今の状況はよく知りませんが、最後まで残された石川線に活気が戻って欲しいものです。
その点、浅野川線は金沢駅前が起点でこれからの公共交通として見直されてきたのではないでしょうか。
鉄道網を生かすまち金沢になって、観光客が使いやすい路線になって欲しいものです。
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