案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2012年11月22日木曜日

朝の東和歌山駅前2

朝の東和歌山駅前をオリンパスペンSで撮ったものです。
前回の高校生通学ラッシュの前で通勤時間帯のようです。

まるで戦後のような雰囲気を残す朝の東和歌山駅前. 1964.07.10  

看板「ホテルたちばな」裏の建物(阪和ホテル)と、古びた単車のとり合わせが終戦直後のよう.

この時間は高校生通学ラッシュの前なのでしょう.

別の角度から見ると駅前風景も違って見える.左手が国鉄東和歌山駅

何を見ているのか傘を抱いた高校生が一人



朝のラッシュにはこんな電車が出動し、東和歌山から市駅や車庫前を往復する.
100形(101)大正14年梅鉢鉄工所製
車庫行きの500形(506)に、この後どっと女子高生が乗り込む.
元南海軌道線の大正10年製車体に、南海鉄道線ブリル27GE1を履かせた背の高い電車.

4 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

なんとも味わい深い電車と街並みです。前回コメントにも書かせていただきましたが、私が初めて和歌山軌道線を訪問した時は、東和歌山駅の駅ビルと区画整理が完成直後で、電車乗り場はだたっ広い駅前に離れ小島のような感じでした。

katsu さんのコメント...

Cedarさん、
この写真の4年後に東和歌山の駅ビルができていますね。
離れ小島の電車乗り場とは、さぞや駅前風景にマツチしてなかった事でしょう。
そんな駅前の電車も3年後には全廃ともったいないことしました。
今の駅前をストリートVで初めて見て腰を抜かしました!
全国どこでもこれが当たり前なんですね。
早速今昔比較をアップしてみます。

T.F さんのコメント...

和歌山軌道線を初めて訪れたのは昭和39年12月27日で、京都駅を初発(6時34分)の快速に乗り、東和歌山到着は9時を過ぎになりました。当時の阪和線は快速が1時間間隔、和泉府中以遠各駅停車となる直行が30分間隔と阪和間は1時間に3本で、直ぐ横の貴志川線を昼前まで撮影してから軌道線に行きました。廃止になるまで6回位訪れましたが、いつも同じパターンでしたので、ラッシュ時しか走らない単車の100形、連接車の2000形、ダブルルーフの高床車の500形はまともに撮影していません。

市街地を出ると専用軌道となり、本格的なトンネルがある等沿線は変化に富んでいました。
昭和41年には、元秋田市電60形が4両転入して、ヘッドライトの2灯化、パンタ化等小改造の上250形となりましたが、僅か5年後の昭和46年3月末で廃止されました。

ボンネットバスは撮影はしていませんが、海南藤白浜行で運行されており、途中の経路は電車と異なるもののライバル関係になっていました。

katsu さんのコメント...

T.Fさん、
東和歌山の訪問記ありがとうございました。
私も1回目の訪問はちょうど昭和39年(7月)でした。
1回目の東和歌山は下見の感じで数年後の2回目の訪問で周辺私鉄を回りました。
東和歌山の駅前旅館に泊まったのは宿代が安かったからで、偶然早朝の駅前光景が撮れたがラッキーでした。
和歌山軌道線のライトの2つ目玉は幻滅でしたが、この頃はけっこうまともな1つ目電車も居ましたね。
東和歌山駅前の後、私は逆に東和歌山7:36発の阪和線快速で天王寺へ向かいました。
阪和線の遅延で梅田駅の京都行ホームでの合流待合わせに遅れて焦ったものです