案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2022年4月24日日曜日

日本人が初めてみた蒸気機関車(模型) 2

 2015年8月31日のブログを一部編集して再掲載します。

前回の記事 「日本人が初めてみた蒸気機関車(模型)1


樋畑翁輔の遺稿「米国水師提督彼理氏来朝絵図草稿」12.5mの絵巻物。

松代の真田宝物館は屋代線松代駅跡のすぐ近くでした。
宝物館訪問の目的は、嘉永7年(1854年)に横浜に陸揚げされた蒸気車模型を見た絵師が自分の目で書き写した写生絵図が2年前に初めて真田宝物館に寄託されたので、写生絵図とその後の関係を確認することでした。以下は真田宝物館で確認できたことです。


1.樋畑翁輔の遺稿とは何を指すのか? 
松代藩藩士 樋畑翁輔が蒸気車の絵図含め17場面で構成された「米国水師提督彼理氏来朝絵図草稿」の絵巻物(12.5m)が翁輔の遺稿であり、これが所有者から真田宝物館に寄託された。

この「米国水師提督彼理氏来朝絵図草稿」絵巻物は常設展示でなく今回見ることできなかったが、これが展示された時は、取材カメラなどなかった嘉永7年に初めて見た蒸気車を絵師の目を通して描かれた驚くほど克明な絵図現物を見ることができる。

2.写生絵図そのもの(原画)は現存するのか?
「米国水師提督彼理氏来朝絵図草稿」絵巻物そのものが写生図絵を集めた原画集であり、樋畑家直系から真田美術館に寄託され現存している。これを元に着色された様々な模写絵が出回っているが原画とは少しずつ異なる。

3.昭和5年に上梓された「米国使節彼里提督来朝図絵」(印刷物)との関係は?
樋畑雪湖が父翁輔の写生絵図原画を集めて上記絵巻物に仕上げ、それを元に編集した冊子が「米国使節彼里提督来朝図絵」で、掲載された絵図↓は写生絵図そのものを印刷化していると思われる。

上図は本の絵を部分拡大したもので、写生絵図を印刷化したので滲みが出ているが、写生絵図原画を撮った部分写真↓を見ると弁装置などが恐ろしく緻密に(当たり前か?)描かれている。

写生絵図原画を撮ったデジタル画像の一部を見ると絵師のタッチがわかる.

昭和5年に上梓された「米国使節彼里提督来朝図絵」(印刷物)

日本初は蒸気車だけでなく、泰平の眠りを覚ました西洋音楽(ポピュラー、クラシック)が日本で初めて演奏された場面等もこの絵巻物に収められています。真田宝物館で今後この絵巻物が公開される日が楽しみです。
尚、2013年6月5日の朝日新聞に大英博物館がこれの着色された絵巻物(15m)を美術商から入手し公開を始めた事が紹介されました。

出典
・「松代藩と黒船来航」 松代文化施設等管理事務所 発行 H25年
・「松代」 第28号     松代文化施設等管理事務所 発行 H27年
・「米国使節彼里提督来朝図絵」 樋畑雪湖:著  発行 昭和5年
・「米国使節彼里提督来朝図絵」絵巻原画のデジタル画像 松代文化施設等管理事務所 
・「黒船来航と音楽」 笠原潔:著 吉川弘文館 発行 H13年

2022年4月19日火曜日

花巻電鉄 西公園停車場

今月発売のTMS 5月号 地方私鉄失われた情景第35回は「花巻の西公園停車場」花巻電鉄軌道線です。

花巻と言えば宮澤賢治。1920年代に賢治が駅裏手にある小径を歩いて花巻農学校へ教職で通っていた時代からこの停車場の風景は変わっていないのだろう。
駅裏手を行く小径は高台にありそこに西公園があった。
日が暮れるころ賢治は西公園から停車場や電車の明かりを見下ろしていたかも知れない。
そんな情景が目に浮かぶ? 二次元レイアウトセクションの2ページ。

3月30日にブログに掲載した路線図は誌面ではモノクロです。


 


2022年4月17日日曜日

よき時代の下津井電鉄2

1961年に新型車モハ103を投入した2年後、1963年は良き時代の下津井らしい車両がまだ活躍していて、私の1年後に田辺さんが訪問していました。

撮影:田辺多知夫 1963.7.19 


魅力溢れる傑作の編成 モハ50形+サハ1or2+クハ9   茶屋町


下津井電鉄の看板新型電車モハ103+クハ24 茶屋町


気動車改造型のモハ54 下津井

2022年4月12日火曜日

よき時代の下津井電鉄1

昨日変更したタイトルの写真です。
写真集「地方私鉄1960年代の回想」の下津井電鉄で使った1シーンの次の1コマです。

撮影:1962.7.29

瀬戸内海の風景を行くよき時代の下津井電鉄の車両と風景。
琴海-鷲羽山 


バケット付気動車を改造した電車が活躍していた時代。下津井 


琴海


2022年4月11日月曜日

西武国分寺線 鷹の台

 久しぶりに国分寺線 新緑の「鷹の台」を撮ってみました。



玉川上水の脇を流れる新堀用水。




鉄道組み写真 鷹の台.

2022年4月10日日曜日

外川駅の先にあった海水浴場

1963年夏の銚子電鉄、海辺の終着駅外川に下りるとこんな名所案内が掲示されていた。
長崎海水浴場は今もあるが犬若海水浴場とは一体どこにあったのか?

撮影は全てオリンパスペンSです。1963.6.30


名所案内にあった長崎海水浴場と犬若海水浴場。


満員で外川に到着する列車。


外川駅に下車した子供たちの歓声。

外川駅



この犬若岬あたりに昭和40年代まで犬若海水浴場があったようだ。


現在は埋め立てにより海水浴場はなくなっている。

2022年4月8日金曜日

西武狭山線のN101系

久しぶりに40mmレンズで撮った西武鉄道。
撮り鉄散歩は重くてデカい望遠ズームレンズは使いたくない、
軽い単焦点広角レンズを装着して鉄道撮るには
画角でやはり40mmあたりがよさそう。
 
西所沢 2022.4.6

2022年3月31日木曜日

花と電車


 西武新宿線。 東伏見-武蔵関
コロナで長いこと眠っていたフルサイズカメラで撮ってみました。



小金井公園。
iPhone12

2022年3月30日水曜日

宮澤賢治と西公園停車場

花巻電鉄軌道線 1915(大正4)年9月 西公園~松原間の運転開始
その後、1925年過ぎに西鉛温泉まで開業。

宮澤賢治のこと
1896(明治29)~1933(昭和8)年
1914年(18才)盛岡高等農学校入学
1917年(21才) 肋膜炎を患う。童話を書き始める。
   農業の改良研究、法華経、科学と宗教に目覚める。
1919年(23才)に卒業し24才に家出をして東京へ出たが妹が亡くなり花巻へ帰る。

1921~1926年(25才~29才) 花巻農学校教職を4年間やって辞める。
  銀河鉄道の夜を書く初稿1924年/出版1934年。
  農民となり童話や詩を書く。
  羅須地人協会を設立。
    農業の改良、肥料の研究などの活動を社会主義と勘違いされる。
  病床につき死を考える。

1932年 35才東京で倒れて遺書を書き実家で2年療養。
1933年9月 37才で亡くなる。


宮澤賢治が花巻市街の自宅から花巻農学校へ教職で通っていた時代は、軌道線(西公園~松原間)の始発駅西公園から軽鉄花巻駅までが開業した数年後で、更に西花巻駅が開業し西花巻~花巻温泉間の鉄道線が開業した頃であった。
(軽鉄花巻駅:岩手軽便鉄道と花巻電鉄が共存した始発駅)

元西公園のところにある碑に記された宮沢賢治「ラジウムの雁」の中に”春の夕暮れに停車場の灯が明滅する”の記載があり、西公園の眼下に見えた西公園停車場のことか?
(ラジウムの雁:1919、1920年頃の春の夕暮れの実話を基に執筆した童話)



西公園停車場 1964.8.2




2022年2月20日日曜日

長崎電軌 大浦川沿いの電車通り

本日発売のTMS3月号 連載第33回は長崎電軌 大浦支線です。
1967(昭和42)年にまだ残っていた長崎の古い街並みを取上げ「大浦川沿いの電車通り」をテーマとしました。 撮影:1967.03.02






大浦川沿いの電車通り 弁天橋。


古い街並みの電車通り 下大浦橋。


石橋電停から見た電車通り。

2022年1月19日水曜日

磐梯山麓のドロ軌道。沼尻鉄道

1月20日発売のTMS2月号。
TMS創刊75年記念の連載「私とTMS」第5回は河田耕一大先輩で、73年間1,000冊近いTMSを読み続けてきた想いが6ページに亘り紹介されました。

さて、地方私鉄 失われた情景 第32回は「磐梯山麓のドロ軌道」日本硫黄沼尻鉄道です。
  川桁を発車した列車は白津の集落を抜けると北上を続けるが、内野の先で北西に進路を変えると磐梯山に向かって走る区間がある。それがこの路線図でこの区間は路側軌道でもあった。
撮影:1964.1.3




2021年12月22日水曜日

京福電鉄鞍馬線 厳寒の岩倉盆地

12月20日発売のTMS1月号 連載第31回は「厳寒の岩倉盆地」京福電気鉄道鞍馬線です。
叡山線・鞍馬線にまだ美しいポール電車が走っていた時代です。
撮影:1969.1.2




TMS新年号の京福電気鉄道鞍馬線。

2021年12月16日木曜日

地下化直前の京王線

ビネガーシンドロームで廃棄処分と思っていたネガか出てきました。
改めてスキャンしてみた本ブログで紹介済みの写真です。


昭和5年東京日日新聞付録。東京市外地図。

撮影:1963.3.31

新宿駅南口の甲州街道。
1963.4.1に京王新宿地下駅が開業した。


甲州街道の中央部を行く京王線。


甲州街道から離れて専用軌道へ入るところの踏切。

文化服装学院の円形校舎の前から玉川上水沿いを行く京王線。


参考:甲州街道上の軌道から地下線に切替え後で、文化服装円筒校舎前から初台・幡ヶ谷にかけて地下化工事中の時代。この時代の甲州街道の逆S字カーブがよく分かる。
ネット写真を消去しました。