案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年6月6日土曜日

聖光学院前のデルタ線

福島交通軌道線。
国鉄伊達駅前に 飯坂温泉「ようこそおいで下さい これより4Km(電車)」の看板があり温泉行きの電車が出ていた。伊達駅前を出た電車は聖光学院前のデルタ線で方向を変えて湯野町(飯坂温泉)へ向かう。

このデルタ線の駅が実に魅力的で格好の模型化題材ではないでしょうか。1967年9月に聖光学院前~湯野町間が廃止となり、それに伴い長岡分岐点~伊達駅前間は貨物専用線になったようだ。


撮影:1966.12.31
デルタ線の急カーブ。ホームはないがここが聖光学院前の駅であった。

伊達駅前からやって来た湯野町行の電車。

長岡分岐点から直進して伊達駅前へ向かう電車と湯野町行電車がここで接続する。

湯野町

湯野町駅

2020年5月24日日曜日

別府鉄道の遺産

別府港から山陽本線土山と高砂線野口まで走っていた土山線と野口線の廃線は1984年2月1日。その翌年11月に土山駅から延びる廃線跡の脇に開館した播磨町郷土資料館。

この郷土資料館を訪問された落合宏さんからここに展示されている別府鉄道の遺産の写真を送って戴きました。私は全く知らなかったですが、最後まで走っていた土山線の車両や鉄道遺産がよく保存されていて感心しました。関西からは多くのファンが訪れていることでしょう。

屋外で展示されている車両の保存状況は大変良好のようで、館内に展示された別府鉄道の切符、用具類、車両銘板類、解説資料など、地方鉄道の記録をしっかり伝えているのが嬉しくなります。

撮影:2016年12月 落合宏さん
播磨町郷土資料館入口。遊歩道が土山線廃線跡

DC302+ハフ5

元神中鉄道のガソリンカー.ハフ5 
ハフ5の車内

5号機に牽かれたハフ6
現役時代のハフ5.別府港機関区  1962年

館内の展示品
雨宮製作所製造の銘板は1号機2号機のものですね。




2020年5月19日火曜日

TMS連載 第12回 別府港の煙

TMS連載もこれで12回目、連載スタートしてから1年が経ちました。

今回のTMS 6月号は「別府港の煙」です。
「失われた情景」が連載の趣旨であるため、これまでに取り上げた上武鉄道や竜ヶ崎線でも蒸機の写真は小さく1点のみ。今回も再スキャンして蒸機の車両写真を用意はしましたが掲載した蒸機は情景写真だけです。



撮影:1962.7.28
塀の中にいたのは雨宮製の1B蒸機であった。
雨宮製1号機は別府港駅構内で盛んに貨物入替をやっていた。

1号機で機関庫内に休んでいた2号機を引き出してもらった。

雨宮製の1B蒸機 1号機と2号機。

この日立製5号機の模型がTMS124号の表紙を飾ったのは1958年であった。

奥の機関庫で休んでいた日車製6号機

小さくまとまった別府港機関区の佇まい。

機関庫の中の2軸気動車キハ1と2(初代).上の明かり窓から日が差し込む.

2020年5月10日日曜日

一面桑畑の丹荘駅

1962(昭和37)年12月、八高線で丹荘駅に下りると、良く晴れた暖かな12月の陽ざしを受け丹荘駅の構内片隅に鋼板張りの2軸客車が休んでいた。これが元川越鉄道の木造マッチ箱客車であったことを私が知ったのは最近であった。

撮影: 1962.12.23
ホームの端に上武鉄道の看板を掲げた上武鉄道丹荘駅。


八高線の丹荘駅を降りると左手に上武鉄道のりばがあった。

元篠山鉄道のハフ3入線により、ハフ2は既に使われていなかったようだ。
1967年12月廃車。
甲武鉄道から川越鉄道を経て西武鉄道の所属になったもので、軸箱フタに甲武のマークが残っている。


拡大:軸箱の甲武マーク

ダルマになった初代ハフ3の保線小屋


一面桑畑の中を行く八高線のC58貨物列車

2020年5月7日木曜日

コロナのこと

ブログも気がつけば前回のTMS紹介記事(三山線)から早や20日あまり。
2月からコロナのニュースに釘づけとなりブログもすっかり停滞してしまいました。
今、私は不要不急の外出を除く最小限の外出で今まで通りの生活を送っています。
まるで戦後のようなコロナ後で、社会、価値観、何もかもが変わりそう。
これが現実かと思うコロナ後の社会が日一日と進んでいるのが独居老人にも少しずつ伝わってきます。

私も3月15日から電車に乗っていない。人と会うのもあの3月の桜三連休が最後。
ニュースにあった電車やクルマで海へ出掛けたり、近くの公園や商店街で群れる等は、人の移動や群れることが問題だと分かると、その後すぐに海や公園などから見事に人が消えたのには驚いた。
ロックダウンなしの要請、指示だけでここまで出来るのは、如何にも日本人らしい不謹慎を嫌いルールを守る心があるからだろう。さらに地方では感染の恐怖感から守りがエスカレートし、他県ナンバー車への忠告し過ぎの問題が出るほど。

日本各地の行動制限(%)が実行再生産数の数値に反映し、その数値は2週間後辺りに新規感染者数として表れている。
これから緊急事態宣言を終了し段階的解除に入ると次の感染第2波が発生し、また行動制限して感染速度を抑制し、何回か小波を乗り越えているうちに治療薬やワクチンの実用化でコロナウィルスを収束させる、これが日本のコロナ作戦のようだ(BS1 NHKスペシャル)。



上武鉄道丹荘 1962.12.23

2020年4月17日金曜日

鉄道模型趣味誌の連載記事 第11回

今回のTMS 5月号は「月山と三山(さんざん)電車」です。

5月の山形交通三山線と言えば春スキーの月山と桃園の花。出羽三山の一つ「月山」がキーポイントになります。そこで使ったのがこの1枚の月山の写真です。

たった1枚の小さな写真で月山の確定になんと手間どったことか。
山のカタチと白銀が月山と思えるが、三山線の北側から羽前高松行を撮って、ほんとうに月山が電車の背後に写るのか? Googleアースやストリートビューで様々検討した結果でも確定せず、結局、地元市役所に問い合わせてやっと月山が確定できた次第。


夏まで雪が残る月山の麓を行くモハ111+モハ106。1971.5.5
←羽前高松 間沢→


TMS 5月号

以下は未掲載の画像
初春の羽前高松 1966.3.6

 初春の羽前高松  1966.3.6

2020年3月21日土曜日

鉄道模型趣味誌の連載記事 第10回

今月発売の鉄道模型趣味(TMS)4月号は土佐電気鉄道の御免町ジャンクションです。
早いもので今月号で連載10回になります。
たった2ページの写真記事ですが毎回詰めの段階でえらい時間が掛かります。
先日もキーポイントになる背後に写る山の名称で、たった名称一言の調査にどれだけ時間を掛けてしまったか。こんな拘りも自己満足に過ぎないのかもしれません。



1969年、御免町駅で軌道線⇒鉄道線への乗入れ風景です。

2020年3月10日火曜日

尾小屋鉄道乗車の思い出

今年2月はじめに小松のある高校同窓会に招かれて尾小屋鉄道の思い出を聞かせてもらいました。私より年上の方の体験であり私が知らない昭和30年前後の尾小屋鉄道です。小学校から高校時代まで尾小屋鉄道とどんな関わりがあったのか思い出を書いてもらいました。

以下は昭和30年頃の尾小屋鉄道を利用された方が書かれた思い出です。

〇小学生時代
私は東京で生まれ、疎開先の福島から、国民学校2年の時に、尾小屋に来ました(昭和23年、1948年)。尾小屋鉱山が活況の時でした。病院や映画館や風呂場があり、床屋、八百屋、魚屋、薬屋などの多くの商店がありました。人口は5,000人とのこと。父は洋服の仕立て業をしていました。家族は父、母、兄弟5人でした。小学校の5年間は学校は尾小屋にあったため尾小屋鉄道には乗りませんでした。そして尾小屋鉱山が閉山(昭和46年、1971年)する少し前の昭和40年(1965年)に我が家は金沢へ引越しました。

〇中学時代に尾小屋鉄道に乗車
中学校は観音下駅を下車し、丘の上にありました。1学級約100名・全学校生300名程の学校でした。観音下駅の後ろの山は採石場となっており、山は直角に削り取られ壮大な景色でした。また駅近くにパン屋さんがあり、よくコッペパンを買って食べた記憶があります。生徒は観音下周辺の村々から来ていました。尾小屋から観音下までの距離は約4kmで約20分弱の乗車でした。スピードは速くはなかったですが、よく揺れました。時々尾小屋鉄道と並行して走った記憶があります。車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つでした。昭和28年から30年(1955年)までの通学でした。

〇高校時代に尾小屋鉄道に乗車
小松の高校に3年間通学しました。昭和31年から33年(1958年)まで。尾小屋から小松までは16.8kmあり、乗車時間は約1時間弱でした。当時はバスなどは走っておらず、尾小屋鉄道が唯一の交通手段でした。尾小屋鉄道のおかげで小松に通うことができ、感謝しています。尚、冬には雪が降り・積もり、時刻通りいかず大幅に遅れたり、時には運休することもありました。そのため冬には小松に下宿する生徒もいました。私は3年間尾小屋鉄道で通学しました。車内は心地よく、まるで個室にいるような錯覚をしてしまい。座席に座り考え事をしたり、宿題をしたり、本を読んだり、居眠りをしました。小松は現在と違い商店街は活況を呈していました。1年に1回、弟・妹と一緒に小松に出て商店街を見、うどんを食べるのが楽しみでした。当時、三橋美智也の講演会が小松で開催され入場した記憶があります。三橋美智也の歌は懐かしいです。  

私(katsu)が 撮ったもっとも昔(昭和37年)の観音下駅。晩年の駅とイメージが違います。

尾小屋から観音下まで通学した中学時代。~昭和30年
尾小屋から小松まで通学した高校時代。~昭和33年
通学した当時の観音下駅はこんな感じだったのでしょう。

昭和39年の年末、長原から見た朝日を浴びた尾小屋の街並み。

中学時代の車中は仲間同士の談笑の場で、乗車することが楽しみの一つであった。
高校時代に尾小屋から小松まで約1時間の通学で車内は大変心地よかった。
まるで個室のような錯覚をした車内。
等々・・一体どんな列車だったのでしょうか。
1950年代後半(昭和30~35年)は尾小屋鉄道の最も華やかな時代と言われている。

二両目の客車ホハフ7を除き昭和30年頃の列車はDC121(昭和28~)が牽くこんな列車だったのでしょう。写真は昭和37年に撮った尾小屋駅のDC121+ハフ3+ホハフ7+ホハフ3。

2020年3月8日日曜日

最後の池袋発 直通三峰口・長瀞行

3月14日に実施する西武鉄道ダイヤ改正で、土休日の朝夕に運転される秩父鉄道直通列車の運転区間が見直しとなり、今日が最後の池袋発 直通三峰口・長瀞行。

白いセミクロスシート車4000系が消える訳ではなく4000系が池袋~飯能間を走ることが無くなるだけのことですが、最後の池袋発 秩父鉄道直通で三峰口まで乗ってみました。

 三峰口で見れる4000系が消える訳ではなく、今日の16:25発が最後となる直通「池袋」行。次の休日から直通は三峰口~飯能間となる。2020.3.8

とうことで最後の急行「池袋」行先表示を分かるように撮ったものです。

ダイヤ改正後も飯能~三峰口間の直通はあるので三峰口のこんな光景はまだまだ見れるでしょう。

所沢で乗る快速急行「長瀞・三峰口」行もこれが最後となった。

新型ラビューへの置換えで3月14日ラストランとなるレッドアローのHM。所沢

人気のレッドアロークラシックも今週3/13日がラストラン。こちらはラストランのHMもなかった。西武秩父

池袋線の特急は全てラビューに置換えとなる。 所沢