案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2020年5月10日日曜日

一面桑畑の丹荘駅

1962(昭和37)年12月、八高線で丹荘駅に下りると、良く晴れた暖かな12月の陽ざしを受け丹荘駅の構内片隅に鋼板張りの2軸客車が休んでいた。これが元川越鉄道の木造マッチ箱客車であったことを私が知ったのは最近であった。

撮影: 1962.12.23
ホームの端に上武鉄道の看板を掲げた上武鉄道丹荘駅。


八高線の丹荘駅を降りると左手に上武鉄道のりばがあった。

元篠山鉄道のハフ3入線により、ハフ2は既に使われていなかったようだ。
1967年12月廃車。
甲武鉄道から川越鉄道を経て西武鉄道の所属になったもので、軸箱フタに甲武のマークが残っている。


拡大:軸箱の甲武マーク

ダルマになった初代ハフ3の保線小屋


一面桑畑の中を行く八高線のC58貨物列車

4 件のコメント:

鹿部電鉄 さんのコメント...

私が上武鉄道を訪ねたのはその10年ぐらい後だったと思います。2代目ハフ3が貨車の最後尾に繋がれて丹荘に停まっていました。切符を買って発車を待っていたのに、汽笛も鳴らさず知らぬ間に置いてけぼりを食らわされてしまいました。バスで追っかけて西武化学の工場敷地内でやっと列車のただ一人の乗客になると、それまでの不機嫌は吹っ飛んで行きました。当時から(今でも)2軸車が大好きで、ボギー車では味わえない間延びしたジョイント音が子守歌のように心に響きました。
ハフ2はその頃も西武色だったのでしょうか?

katsu さんのコメント...

鹿部電鉄さん
この写真の0年くらい後に訪問されましたか。
上武鉄道もこの頃とはずいぶん変わってしまったと思います。
私たちが訪問した時は2代目ハフ3が入線したばかりだようで、
沿線を歩いたので残念ながらこの客車には乗ってなかったようです。

私のメモに記された客車の色は窓回り白クリーム、腰下淡いピンクは2代目ハフ3であり、
丹壮駅に留置さていたハフ2は黄色/マルーンの西武色だったような気がします。

青蛙 さんのコメント...

この鉄道に私と共に訪問しましたね。12月も過ぎて翌年の4月に従兄弟から電話がかかってきました。
彼は西武鉄道から西武化学に出向してきたのです。で、驚いたのですが彼は我々の訪問を知っていたのです。
実は西武化学の工場内にある事務所に立ち寄った際、見学者名簿を閲覧していたのです。このころはほんの少しのマニアしか来ないので私の名前を見つけたときは驚いたそうです。私が鉄道ファンであることを知らなかった
からです。この工場内には西武から来た古典ロコが集められしかも現役も。ピッツバーク7号機が神流川沿いに
竹や日の中から走ってきたのに対処できず碌な写真がありませんがこのころから盛んに地方鉄道巡りをしたのですね。ここから我々の青春時代が始まったのかと感慨深いものがあります。Katsuの写真を見て楽しませていただきました。



katsu さんのコメント...

青蛙さん
ひさしぶりです。
この頃は日誌をつけていなかったのが残念ですが、あの日のことは鮮明に記憶が残っています。
暖かな陽を浴び丹荘駅構内に立った時の幸せ感が忘れられません。
これから向かう西武化学工場内に一体どんな古典蒸機が動いているのか、事前情報が少ない時代ゆえの楽しみであったと思います。

たった二人だけの古典蒸機訪問。
この時の煙吐く古典蒸機の光景が写真と記憶で目に浮かびます。
1962年の上武鉄道が見れたのがラッキーでした。
この後すぐに再訪問しピッツバーグ7号機の桑畑走行を撮り直さなかったのが残念です。
その後、現役蒸機がいなくなった上武鉄道にはすっかり感心薄らいでしまいました。