案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年8月28日水曜日

加南線 山代駅


以前使った加南線の路線図を一部訂正して再掲します。


先ほどまで曇天だった雨上がりの空から一瞬まぶしい陽が差し込む温泉町山代。
撮影:1964.12.29
スキャンをやり直して自転車のオバサンの顔がかろうじて現れた。生活と道路と鉄道が優しく調和していた。

眩しい太陽の下、電車区の脇を通って山代駅に到着する。

温泉町山代の街並みを背後にした山代駅。待合室の壁に書かれた「山代温泉」がかすれている。

新動橋行きの準急が走っていた。所要時間はきっと各停と変わりなかったのだろう。


12 件のコメント:

Cedar さんのコメント...

加南線にも準急走ってたのですね。初めて石川総線に行った時、昼間の列車は全部準急でした。途中駅での客扱いをしない事での合理化と聞きましたが同じ理由だったのでしょうか。

katsu さんのコメント...

Cedarさん
加南線で新動橋行に準急が走っていましたが本数は少なく
ほとんどは各停だった気がします。
石川総線の準急の目的とは違っていたと思われます。

transit さんのコメント...

katsu様
 電車区の脇を通り過ぎる1813、クロススパンの支柱と共に傾いだような立木がユーモラスに感じられます。
 ところで過去の北陸鉄道記事を拝見して、2013年8月5日「クライスラー ダッジ1953年型」の中で触れられた、車輪の外された乗用車が目に留まったのですが、これは1958年 opel kapitan P1 かと思われます。
 又、同記事中の写真3番目、1963年秋青梅街道の都電と共に映り込んだ自動車達は、左列手前よりダットサン1000バンvg211、プリンススカイウエイ、中央、スカイラインスーパ-(?)
右列、ベレルタクシー、ブルーバード、クラウン、と、現在では大変珍しい商用車達が眼を惹きます。
 列車とは無関係の話ばかりになってしまい恐縮ですが、貴重な古典的地方私鉄車両と共に当時の文化をも映し込んだkatsu様の映像、これからも楽しみにしています。

esehoku さんのコメント...

加南線シリーズ(?)をありがとうございます。本当に懐かしいです。
山代線の準急といい、河南〜新動橋間は殆どの列車が山代で乗り換えるようになっていた事といい(たった一駅です。前のブログで、1603+3501が河南〜山代間を区間運転していたのだろうとありましたが、多くは1800型などの単行でした)、詳しい事情はわかりませんが、とにかく効率よりも地道なサービスが優先されていたような気がします。
例えがずれますが、山中の駅で、しらさぎが発車して少ししてからお婆さんがホームに入ってきて、それでも停まってドアを開けて乗せていた事を思い出しました。(「待ってくれるんだね!」と隣の本家の祖母に言ったら「田舎だからや。」と優しい言葉が返ってきました。)鉄道と人とが、温もりで繋がっていたのだと思います。

esehoku さんのコメント...

こちらも連投にてすみません。
加南線の路線図を更新されたようですね。
路線名は、この図での「粟津線」のあった当時は…
・河南〜宇和野〜粟津温泉間を「連絡線」
・粟津温泉〜新粟津間を「粟津線」
・宇和野〜新動橋間を「動橋線」と呼ぶのが正しいようです。
(新粟津〜宇和野間の廃線後に、河南〜新動橋間を「山代線」と改称したようです。)
もっとも、この辺りは当の北鉄でも実に適当だったようで、ましてや地元ではそんな事を知る由もなく「◯◯行」電車で通っていたようですから。
片山津線の「片山津本町」も、実は「ほんまち」ではなく「もとまち」だったそうですが、このように正誤が曖昧なまま現在に至る情報が混在していて、北鉄の歴史的考証をややこしいものにしています。
各線敷設の歴史や、各温泉地の力関係みたいなものが垣間見える気がして、興味が尽きません。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
ご指摘ありがとうございました。
この加南線各線の正式な呼び方は承知しています。
ネコパブ出版の「消えた轍」にも正式名が記載されていますので、
私の写真集もそれに合わせました。
ブログの路線図が追いついていなかったので正式名に訂正します。

代打・山本 さんのコメント...

石川線の準急は野町~鶴来間を30分ヘッドで運転するための運転時分の短縮(乗務員の勤務時間も)が目的だったようですが、加南線の場合は接続駅が大聖寺、動橋、粟津と3つあり、それら各駅で国鉄の列車と乗り換えが可能なダイヤを組もうとすると各駅停車だと乗り換え時間がギリギリになる部分ができてしまい、乗降客が少ない駅を通過して運転時分を短縮し、時間に余裕を持たせるためだったようです。
ちなみに1964年のダイヤでは山代~新動橋間で各停8分に対し準急は6分で、それなりに時間短縮の効果があったようです。

katsu さんのコメント...

transitさん
これまでにブログで登場した昭和30年代のクルマの名称をありがとうございました。
私にとってこの時代のクルマはよく分かりません。
参考にさせて戴きます。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
あの河南~山代間がクマやマムシが出没したところとは驚きました。
夏の撮影ではマムシには十分注意しブッシュの中に立ち入らないようにしていました。
クマには出会ったことがなかったのが幸いでした。
是非、シーナリ・セクションを完成して下さい。

katsu さんのコメント...

代打・山本さん
いつも詳細なる情報ありがとうございます。
動橋線(俗名山代線)の準急はそういうことでしたか。
山代温泉客の国鉄乗換駅は動橋が主体であったことが言えそうですね。
それと昨年秋の写真展で当時の加南線の詳細なダイヤを見せてくれた方がいました。
遠い昔に消えた加南線など北陸鉄道の人気は高いものがありますね。

石鉄 さんのコメント...

初めて投稿します

懐かしい北陸鉄道加南線の写真楽しく拝見いたしております。
廃線になってもう半世紀近く経つのですね。

昔新入社員で高岡に勤務していた頃、職場の忘年会で山中温泉に行くことになり
高岡から北陸線で大聖寺まで行き加南線に乗り換えて山中駅まで、
山中駅前には各旅館の旗を持った番頭さんや仲居さんたちが大勢出迎えていてくれました。
当時は今と比べ温泉街もずいぶん賑やかでした。

懐かしい写真ありがとうございました。




katsu さんのコメント...

匿名さん
コメントありがとうございます。
私は入社5年後ぐらいに高岡のお客さんによく出張することがありました。
もう加南線もとったくに廃線になったあとでした。

職場の旅行で大聖寺から加南線に乗って山中温泉へ行かれたとは、
北陸温泉郷と加南線にとってまだ良き時代であったのでしょう。
あっという間の時代の波に飲まれてしまった温泉電車に乗車されたのは
貴重な体験だったと思います。