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高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2019年8月20日火曜日

鉄道模型趣味誌の連載記事 第3回

まもなく発売の鉄道模型趣味誌9月号。
「地方私鉄 失われた情景」シリーズの第3回は北陸鉄道浅野川線の内灘駅を取り上げました。

浅野川線内灘に関してはこれまでに現地の歴史を知る皆さんからブログコメント欄に様々な情報をいただきました。特に黒ユリさんからの内灘闘争があった話は私の内灘への関心が一気に拡大しました。海水浴場や遊園地があった平和な時代と戦後の試射場反対闘争があった時代が絡み合った内灘はとても書ききれない歴史を秘めています。

今、模型はモジュールやセクション製作のための材料の販売が大変な勢いで、これらを使って楽しめる環境が整ってきました。こんな内灘海岸まで海水客を運んだ平和な時代をとり上げて情景模型に作りこむ等すると奥深い模型が楽しめるのではないでしょうか。

海辺に延びる線路を含め内灘駅の構内配線図を掲載しました。


4 件のコメント:

esehoku さんのコメント...

TMS誌、発売を楽しみに待ちたいと思います。
内灘駅から先の粟ヶ崎海岸までの路線は、野町〜白菊町同様に結構謎めいていますね。
内灘は、昭和51年頃に訪問する機会があり、クハなどが留置されていた場所の先に粟ヶ崎海岸方面の線路があったとばかり思ったのですが…住宅の建ち様などから、違う事だけはわかりました。それで結局わからないままでした。
内灘からは別の線路が分枝して、思ったよりも急カーブで海岸方面へ伸びていたのですね。
あと、駅名は『粟ヶ崎海岸』のはずなのに、内灘駅の駅名板には、いささか投げやりな雰囲気で「かいがんえき」となっていた事も後から知りました。このテキトーな感じもまた、昔の北鉄の魅力でしょうか。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
海岸へ延びる線路の歴史は浅野川線車内広告によれば、
昭和4年に遊園前、粟ヶ崎遊園、粟ヶ崎海岸(終点)の3駅を開設し、
戦争でこの区間が廃止され、復活を経て昭和29年に遊園前を内灘駅に改称したが射撃場の貨物駅であった。
昭和35年に内灘に停車場を開設したとあります。
昔の遊園前が現在の内灘駅の位置なんですね。

esehoku さんのコメント...

katsu様
ありがとうございます。
TMS誌も早速買いました。
構内配線図を見て、積年の疑問にとどめを打つ事ができました。
北鉄って、馬車鉄道やら軽便やらの名残りのせいか、結構無茶なカーブが多いですよね。
私が浅野川線を知った頃は、実質的に内灘が終点になっていて、粟ヶ崎海岸は臨時駅のような扱いだったと思います。
海岸駅方面のホームはやはり別になっていて、木を組んだだけだったのが「いかにも」という感じに思いました。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
ご購入ありがとうございました。
構内配線図のカーブや長さはあくまで模型にしたらのイメージです。
駅ホームや構内配線図を実物どうり縮尺して模型にすると大変間延びしてしまう、
これは先日の河田耕一さんの講演でも言っていました。