案内文章

高度成長期に突入した1960年代は、地方私鉄の廃線が次々と続いた10年間であった
「終焉の地方私鉄」を全国に追い求め、
空腹と闘った旅で撮り溜めたネガ。
そんなネガを掘り起し、地方私鉄の1960年代
回想してみました。

2018年7月5日木曜日

尾小屋の暑い夏

強烈な夏の陽を浴びた尾小屋鉄道。
ガンガン照りでカチカチのネガであった。
どの写真も模型の参考に撮ったようだ。
モノクロ写真では分からないが、当時は木造客車ホハフ7に三重交通のクリーム/緑ツートンが残っていたり、DC121は濃淡グリーン、2両のキハは濃淡グリーンのツートンで赤帯が入っていたりで、旧カラーリングが残っていた。

撮影:1962年夏
DC121

朝顔カプラーの楽しさ。

最後尾のハフ3のオープンデッキ風景を見ると、2軸台車の振動とジョイント音が聞こえてきそう。金平の次はこの沢駅

DC121 新小松


西大野の列車交換。 キハ1+ハフ1

DC121+ハフ3+ホハフ7+ホハフ3  尾小屋

 キハ2
キハ2の床下。

8 件のコメント:

にぶろく さんのコメント...

この写真が撮影された時、私は1歳でしたが
14年後中学生になって尾小屋を訪問した時も
木造客車と塗装以外は変わっていなかったのが
今思うと凄いです。
生きる化石みたいな鉄道ですねw

katsu さんのコメント...

にぶろく さん
この写真の14年後とは1976年で、尾小屋鉄道の最後の時代でしたね。
1977年3月の廃線まで、ほんとうによく生き延びたものです。
非電化ナローは1970年頃までに殆ど消滅してしまいましたが、
革新的な1970年代を昔のままで走り続けた尾小屋鉄道に敬意を表します。

にぶろく さんのコメント...

コメントありがとうございます。
尾小屋の続編も期待してます!

私にも尾小屋の暑い夏がありました。
この写真の15年後、廃止後のレール撤去のため
DC122が動いているという
情報を聞きつけ夏休みに訪問しました。
太陽がカンカンに照り付ける中
数人の作業員を乗せたDC122+無蓋車が
金平駅を拠点に黙々と働いていました。
撮影の合間に木陰で休みながら
春の廃止時の喧騒に比べて随分と静かだなぁ、
などと思ったのを覚えています。

katsu さんのコメント...

にぶろくさん
尾小屋はこれで23篇目にもなりました。
尾小屋の記事もそろそろ終わりかなと思っています。
23篇にもなった尾小屋は最も訪問回数多い路線でした。

esehoku さんのコメント...

私もにぶろくさんと殆ど同年代ですが、奇しくも尾鉄を訪問したのも同時期でした。
中学生でしたから、時間とお金の限界から『遊園地前』までの乗車でしたが…遊園地どころか何もないのに驚き、どうりで、車掌さんだか乗客の誰だかが怪訝な顔をして「あんな所で降りるんか?」と言っていたのが後になってわかりました。
写真を撮って、当時文通していた人(女の子)に送ったら、「日本にもまだこんな所があったのですね!」と返信がありました。
苦笑ものの懐かしい思い出です。

katsu さんのコメント...

esehokuさん
国鉄のSLが消えて「最後の非電化軽便」尾小屋を訪問したのは、
当時中学生くらいだったファンも結構いたようですね。
esehokuさんも貴重な体験をされたと思います。
その頃、私は何をやっていたのだろうか。
子供が生まれても仕事のことで頭がいっぱい、
家庭を放り出して仕事が一番きつい時代でした。
鉄道趣味のカケラもありませんでした。

黒ユリ さんのコメント...

しばらくぶりに訪問させて頂きました。
幼稚園の時、小松市に住んでたことがあります。
尾小屋鉄道という響きだけで、懐かしい感じがします。

katsu さんのコメント...

黒ユリさん
お久しぶりです。
浅野川線では内灘騒動があったことを教えてもらい、ありがとうこざいました。
おかげで浅野川線が大いに盛り上がりました。
内灘の前は小松市にお住まいでしたか。
今はなき尾小屋鉄道は多くの車両が大切に保存され
動態保存があり、これほど幸せな地方私鉄もないと思います。
地元の尾小屋鉄道に対する熱意がとても強いのでしょう。